この点において、日本のアプローチは明確に異なっていました。
「単なる技術の伝達ではなく、ビルマの環境に合わせた現場全体を支える“仕組み”そのものを根付かせることに重点を置きました」
この違いは現場レベルでの信頼関係の構築につながり、その後の長期的な技術協力の基盤となっていきました。そして、その差は時間の経過とともに、より大きな違いとして表れていくことになります。
効果があった「高松式」手法の実践
この時はわずか1カ月という短期間の滞在でしたが、高松さんが指導したビルマ国鉄の職員たちは、その後も現場でその手法を実践し続けました。
さらに帰国後も、同国鉄本社の局長や現場の指導者たちとの間で文通によるやり取りが続き、課題の解決や技術的な助言、交流が積み重ねられていきます。こうした関係は、実に20年近くにわたって続きました。
そうした中、2003年初頭――。ミャンマーの鉄道運輸大臣や国鉄総裁らから、高松さん本人に対してご指名で支援を求める要請が寄せられます。この異例ともいえる依頼の背景には、大臣をはじめとする関係者との間に長年にわたって築かれてきた信頼関係がありました。
当時はアメリカによる制裁の影響もあり、日本政府によるミャンマーへの経済支援は限定的で必ずしも後押しがある状況ではありませんでした。それでも高松さんは、外務省などに確認したうえで、この要請を自らの使命として受け止めます。
この時、高松さんは60歳。55歳でJRを退職した後、川崎重工業に再就職していましたが、事情を説明し、退職願を提出します。そして妻の後押しも受けて03年9月、単身ミャンマーへと渡航しました。
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【メンテナンス体系の効果】
