私たちは今、マナーや言い回しのテクニック、いわゆる「失礼のない伝え方」に右往左往していますが、AIがそれを代行してくれる時代になったからこそ、皮肉にも「言葉の先にある真実」がこれまで以上に厳しく問われるようになっています。
「型」をAIに頼って「丸く収まった」と安心している姿は、自分の心を使わずに、面倒な人間関係を「処理」しようとする主体性の欠如そのものなのです。
心の成長、特に道徳的な成長は、むしろ「正論だけでは解決しないこともある」という、一見不条理な現実を受け入れることから始まります。
AIはつねに「解決策」や「もっともらしい落としどころ」を提案しますが、人間の心には、どうしても折り合いがつかない「矛盾」や「割り切れない感情」が残るものです。
ひどく傷ついた相手に対し、AIが提示した「最も効率的で平和的な謝罪」をぶつけたとしても、相手の心の傷が癒(い)えるとは限りません。そこに必要なのは、効率的な解決策ではなく、気まずい沈黙に耐え、相手の目を見続け、不器用でも自分の言葉で語るという「非効率な誠実さ」です。
AIの出す答えはつねに明るい「正解(光)」を指し示しますが、人間が生きる現場には、割り切れない「影」が必ず存在します。誰かにとっての光が、別の人にとっての影になることもある。その摩擦から逃げ出さず、「解決しないかもしれないもやもや」を抱え続ける力。これこそが、AIには決して真似できない「人間としての厚み」であり、自律した個人が持つべき真の強さなのです。
「人生の主役の座」は子ども自身のもの
子どもへの問いかけや謝罪文の例を通じて、AIで生き方を学べるかについて考えてきました。少し否定的な話が続いたので、読者のなかには、
「心の教育のためにはAIはやめさせたほうがいいと著者が考えている」
と思われた方がいるかもしれません。
しかし、私はそうは思いません。AIを子どもから引き剥(は)がす必要はないですし、そしてそれは不可能だとも思います。
いま、私たちの生活の風景は劇的な変貌を遂げようとしています。かつてはSF映画のなかの出来事だと思われていた「人間のように対話する知能」が、いまやスマートフォンの画面越しに、あるいはリビングのスピーカーから、当たり前のように私たちに語りかけてきます。
生成AI。それは単なる便利な道具という枠を超え、私たちの「思考」や「判断」、さらには「生き方」そのものに深く介入し始めているのです。
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【AIによる根源的な危機への対処は不可欠】
