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怒号の飛ぶ災対室で伝説の次官が一人静かに記した指示書、組織動かした最初の一声/トップ同士つないだインフラの正体

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復旧・復興の現場で総指揮を執った徳山日出男は「超法規的」決断を繰り返した(写真:時事)

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2011年3月の東日本大震災は、世界史に残る未曽有の災害だった。国土交通省東北地方整備局の局長として、現場の総指揮を執った徳山日出男は、果敢な決断で超法規的措置を繰り返し、津波被害の復旧で大きな役割を果たした。
「もうそろそろ語ってもいいかな」
後に事務方トップの国土交通事務次官となり、「伝説の次官」とも称される徳山。あれから15年が経った今春、当時の胸の内を計10時間かけて取材に語った。
「当時考えたことを初めてここまで話した」というその内容を基に、約10回にわたってお届けするドキュメント・危機のリーダー。配信は原則毎週木曜日。修羅場で重ねたその思考や判断は、ビジネスリーダーや官僚にとって最高の教科書だ。
第2回は、極限状態だった3・11当日のクライシスマネジメントに迫る。

予想外の人事により、国土交通省本省から宮城県仙台市にある東北地方整備局の局長に徳山日出男が就いたのは11年1月だった。

宮城沖では「30年以内に99%」の確率で巨大地震が発生するとされていたが、「まさか起こるはずはない」とどこかで思っていた。

しかし着任から2カ月足らずで、それは実際に起こった。

徳山日出男(とくやま・ひでお)/1979年東京大学工学部土木工学科卒業、建設省入省。2008年国土交通省道路局企画課長。11年1月同東北地方整備局長、東日本大震災で対応を指揮。13年同道路局長、14年同技監、15年同事務次官。電通執行役員社長補佐、政策研究大学院大学客員教授を経て、国土技術研究センター理事長(撮影:今井康一)

「ゆっくりしておいで」と言われたのに…

11年3月11日午後2時46分。東北地方整備局が入る合同庁舎を揺れが襲った。徳山がいた局長室でも、プリンターが棚から落ち、電気が消えた。

気づくと、打ち合わせ中だった秘書の阿部芳枝の姿がなかった。

最初の揺れが収まり、戻ってきた阿部に徳山は尋ねた。

「大丈夫か、何をしていたんだ」

阿部はこう答えた。

「災対室に行けるよう、局長室の扉が閉じないよう確保していました」

地震対応の指揮を執る災害対策室への通路を確保したという。徳山は感心しながら、局長室のある本館から別館の災対室へと向かった。電気は自家発電で復旧していた。

徳山がその部屋に入るのは、局長就任後初めてだった。震災当日は就任から53日目。局長としては、まだ「新人」だった。

そもそも、徳山の東北への異動は異例だった。霞が関の大規模人事は普通、通常国会後の夏に行われる。しかしこの年は1月に実施された。

当時は民主党政権。参議院では自民党を中心とする野党が過半数を握る「ねじれ国会」の下、尖閣諸島沖の中国漁船衝突事故への対応をめぐり、馬淵澄夫国交相の問責決議が可決されていた。

菅直人首相は1月半ばに内閣改造に踏み切り、馬淵は退任。そのタイミングで国交省の人事も動いた。徳山は振り返る。

「馬淵さんは退任前に、本省幹部の人事を行いたかったのだろう」

本省幹部の一人が動けば、人事は数珠つなぎに動く。

その当時の徳山は道路局企画課長。局内でも筆頭格のポストだった。九州地方整備局長が交代すれば九州へ異動する、との見方が大勢だった。「九州は災害が多く、道路系の官僚が行くことが多かった」(徳山)。

加えて、自民党幹事長や運輸相を務めた古賀誠ら、政治的配慮が必要な大物も多い地域だ。政治家との関係構築に長けていた徳山は適任とみられていた。

だが、ふたを開ければ東北だった。縁も薄い土地。周囲には「左遷ではないか」との見方すらあった。それでも、親しい先輩や同僚はこう送り出した。

「ゆっくりしておいで」

徳山は道路局企画課長として、公共事業削減を掲げる野党・民主党と対峙してきた。09年の政権交代後は、その対峙してきた相手が「上司」となり気苦労も多かった。東北は、災害が比較的少ない地域とされ、親しい仲間は「ゆっくり温泉でも楽しんで」と声をかけてくれた。

徳山自身もそのつもりだった。赴任時点で、東北を津波が襲う大地震の確率は「今後30年で99%」とされていた。工学部出身の徳山は「99%は工学的には100%」と頭では理解していたが、「自分の任期の2年間に起きることはない」と、どこかで高をくくっていた。

その「100%」は、赴任から53日目に現実となった。

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