ちなみに『武功夜話』(尾張国の土豪・前野家の動向を記した覚書、軍記。史料的価値には疑義が呈されている)は、信長の比叡山焼き討ちの理由をこのように記述しています。
元亀元年(1570)に信長と浅井・朝倉、延暦寺は「神文誓紙」(起請文)でもって和睦したにもかかわらず、その後、浅井・朝倉はそれに違反、信長は「山門衆の無法を御激怒」したため、比叡山を攻めたというのです。
それとあわせて「積年の恨みを散ずる可(べ)く」との一文があります。この場合の「積年の恨み」というのも、延暦寺が浅井・朝倉に味方したことでしょう。
無関係の人々も…
『武功夜話』の比叡比攻めの箇所には『信長公記』のように、山門衆徒が淫乱で鳥魚を食し云々の記載はありません。元亀2年9月12日、信長による比叡山攻めが始まりますが、比叡山の麓にいた老若男女は突然のことに右往左往し、取るものも取りあえず、裸足で八王寺山に逃げ込んだといいます(『信長公記』)。
織田軍は四方より攻め上り「僧俗・児童・智者・上人」といった僧侶らの首を切ったのでした。それら僧侶の首は、信長の御前に差し出されました。信長の前には僧侶たちの首だけがもたらされたのではありません。多くの「美女(女性)、小童(子供)」が捕えられ、信長のもとに連行されてきたのです。
それらの人々は「悪僧ならば殺されても仕方ないでしょう。しかし、我々はそうではありません。お助けください」と口々に命乞いをしたといいます。ところが信長は、それら無関係の人々を許容することはありませんでした。
「美女、小童」らは、首を打ち落とされたのです。『信長公記』はその光景を「目も当てられぬ有様」と記しています。こうした辺りが、信長が冷酷無比と評される所以でしょう。
さて『武功夜話』にも「比叡山退治」の記述がありますが、そこにも逃亡しようとする者を「容赦なく切り捨て」たとあります。
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【木下藤吉郎(秀吉)も叡山攻めに参加】
