そもそも国民党の創設者である孫文(1866~1925年)にとって、日本は革命運動の拠点ともいえる存在だった。
孫文は生涯で計9回訪日し、通算で約10年近くを日本で過ごしている。号の「中山」も、東京・日比谷公園近くにあった中山邸の門札に由来するとの逸話が知られる。
さらに1905年には、国民党の前身である中国同盟会が東京で結成された。
歴史的に見ると国民党は必ずしも反日ではない
また、宮崎滔天(1871~1922年)や犬養毅(1855~1932年)といった当時の日本のアジア主義者は、孫文の提唱した「三民主義」に共鳴し、資金や武器の調達面で支援を行った。
こうした経緯を踏まえると、日本は当時の国民党および中国革命にとって、思想的・資金的な両面で重要な拠点であったといえる。
孫文の死後も、日本との結び付きが完全に途絶えたわけではなかった。
後継者と目された汪兆銘(1883~1944年)と蒋介石は、その後の評価こそ大きく分かれるものの、日本との関係という点ではいずれも深い接点を持っていた。
汪兆銘は官費留学生として来日し、近代思想や革命運動に触れる中で孫文の側近として頭角を現した。その後、政治闘争で蒋介石と激しく競い合い、最終的には主導権争いに敗れる。さらに日中戦争期における対日協力姿勢から、中国では長く「売国奴」との評価を受けてきた。ただ近年では、より冷静で多角的な歴史分析が進み、従来の全面否定一辺倒から再評価の動きも見られる。
一方の蒋介石は日本に留学し、国立の軍人養成学校だった東京振武学校で学んだ後、新潟県高田の陸軍第13師団に所属した経験を持つ。辛亥革命(1911~12年)が勃発すると帰国して革命に参加し、国民党内で地位を固めていった。やがて党内外の対立を制し、中国の実権を掌握するに至る。
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【共産党と一歩踏みこんだ関係】
