「幼い甥っ子まで人質として利用」裏切り浅井を打倒するため親族を差し出す"秀吉の非情"

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翌日の26日には金ヶ崎城を総攻撃し、朝倉景恒を降伏させ開城。いよいよ越前朝倉氏の本拠に攻め込むべく、この金ヶ崎城に軍勢を集結させる。そこには、徳川家康が率いる軍勢の姿もあった。

すべては計画通りに事が運び、あとは仕上げを行うのみ……そんなときだった。「浅井長政が裏切ったらしい」という一報が寄せられる。

『信長公記』によると、当初は織田軍の攪乱を狙った「虚説」だと信長は考えたらしい。だが、次から次へと同じ情報が寄せられて、信長もようやく事態を受けいれることになる。

このままでは挟み撃ちされてしまう。信長はすぐさま京都へ帰還するべく、撤退戦へと転じることとなった。

死力を尽くして織田軍を退却させた秀吉

だが、信長を無事に退却させるためには、最後尾で戦いながら逃げる「殿(しんがり)」が必要となる。

最も危険な任務であることは言うまでもない。一体、誰がそんな「殿」を務めるというのか――。そんなときに手を挙げたのは秀吉だったと言われている。

志願して「殿」を引き受けた秀吉は、最後尾で朝倉勢の攻撃をしのぎつつ、なんとか無事に織田軍を退却させることに成功。「藤吉郎の金ヶ崎退き」として語り継がれることとなる。

いつも兄と命運をともにした弟の秀長のことだ。このときも、ともに死力を尽くしたに違いない。殿軍の奮戦によって危機から脱した信長は、秀吉に褒美として黄金30枚を与えたという。

その後、岐阜にいったん戻って兵を整えた信長は、浅井氏に報復するため、大軍を率いて浅井長政の居城・小谷城近くへと攻め込んでいく。

徳川家康の軍と合流した信長は、浅井・朝倉軍を撃破するも(「姉川合戦」)、小谷城まで一気に落とすのは難しいと判断し、小谷城の南方拠点である横山城を奪取。そこに秀吉を置いて、にらみを利かせている。

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