信長亡きあと、天下人へとのし上がるべく、秀吉が妹の朝日を徳川家康のもとに嫁がせたことは、よく知られている。それでもなお、上洛して恭順の態度をとろうとしない家康に対して、秀吉はさらに年老いた母まで、家康の下に送り込んだ。どこまでも手段を選ばない男である。
だが、そんな秀吉のやり方は、実は織田家の家臣だった頃にすでに用いられていた。織田を裏切った浅井家の勢力を弱めるために、秀吉は身内を差し出している。果たして、どういう状況だったのか。
「虚説」だと信長も驚愕した浅井長政の裏切り
永禄11(1568)年に信長は足利義昭を奉じて上洛。義昭を室町幕府の15代将軍に擁立すると、畿内を中心とした諸大名・国人領主に対して、こんな触書を送りつけた。
「天下静謐のため、来月中旬に上洛して、朝廷と幕府に礼参せよ」
だが、越前国の戦国大名・朝倉義景がこれを拒否。信長は元亀元(1570)年4月20日、3万の兵で越前侵攻を開始する。まず西近江から若狭国に入ると、25日には越前の敦賀表に侵入。信長は自ら馬で駆けて、現地調査を行ったようだ。
『信長公記』には「御逗留廿五日越前之内敦賀表へ御人数被出 信長公懸まはし御覧し則手筒山へ御取懸候」と書かれている。現代語訳すると、次のような意味となる。
「25日には越前の敦賀のほうに軍勢を差し向けた。信長は駆けまわって状況を確認し、すぐに手筒山城への攻撃に着手した」
続いて「城高山にて東南峨々と聳たり雖然頻に可攻入之旨御下知之間既軽一命粉骨之被励後忠節無程攻入頸数千参百七十討捕」(『信長公記』)とあるように、信長は堅牢な手筒山城を何度も攻撃し、1370もの首を取ったという。



















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