林望が説く「電子本は読書にあらず」 紙の本の手垢と書き込みこそが"真の学び"となる理由
読んだ内容を記憶するということは、読書の反復性の容易さや、恣意(しい)的に自分がマークする機能などと、非常に強くリンクしているものです。
それゆえ、私は「同じ本でも図書館の本を借りて読んだのでは読書にならない」と常々公言しているのです。図書館の本には、手垢などつけてはいけないし、まして書き込みなどは御法度ですから、ただただ、その時限りに「目にした」というにすぎません。
私の考えでは、借りてきて読んだのでは、それはしょせん「借り物の智慧」にすぎません。その本を返却してしまえば、その読書経験は、時間とともにどんどん薄れていく。しかし、自分の本を読みながら、書き込んだり、いろいろなものを挟み込んだり、そういう営為の総和によって、紙の本の読書はより強く脳のなかに記憶されて行くものです。
そして、それは読書のスピードと反比例するというところがある。いわゆる速読術ができる人は、パッと見たものを写真的に記憶するといいます。
私自身は、そういう速読などはいっこうにできないので、それがどんなものだかはよくわかりませんが、ただ、床(ゆか)しい名文、見事な描写、奥深い思惟(しゆい)、そういうものに書物の中で遭遇したときは、さっさと読まずに、なんども行きつ戻りつして、長い時間をかけて玩味したいものだと思います。
「速読」と「読書」の違い
今の時代には速読も時短のために有効という考え方もあるかと思いますが、それはやはり実用書に限ってのことだと私は信じます。
あるいはまた、たとえば或る本に、どういう事柄が書かれているのか、そのごく大まかな内容を知るためであるなら、パパパパッと読みとばして判断するとか、まずは目次や序跋(じょばつ)などを見て「これは面白そうだから、もっとじっくり読まなきゃ」とか、そういうことのためにはなるかもしれません。
が、少なくともそれは、人格だとか感情だとか叡知だとか、こうした深いなにものかに訴えるような意味での読書ではないだろうなと感じます。



















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