林望が説く「電子本は読書にあらず」 紙の本の手垢と書き込みこそが"真の学び"となる理由
文化的な営為というのは何事もそうで、たとえば音楽を聴くのに、最近は速度を速めて10分ある曲を倍速、3倍速なんかで、サササーッと聴いてしまう、というような聴き方をする人がいると聞きます。でも、果たしてそれでほんとうに音楽を鑑賞したことになるのだろうか、否、否、否、絶対の否!
味わいながらする読書
映画もまた同じことでしょう。たとえば小津安二郎の映画などは、今から観るとものすごくゆったりとしています。笠智衆なんかがボーッと座っていて、茫洋たる口調でなにか呟くと、それに対して原節子がおっとりとした上品な口調でゆるやかに答えたり……そういう「間(ま)」で芝居が進んでいくような場面を倍速や3倍速にしたら、制作者が意図したセンチメントはみなどこかへ吹っ飛んでしまうでしょう。
「間合い」ということは、じつは非常に大切で、なにかを味わうためには、「時間」はとても必要なことです。
確かに、早送りで見ても映画の筋書きはわかります。筋だけを知りたいなら、それでもいいけれども、それでは演技している人、監督した人、脚本を書いた人の想いは、全部台無しになってしまいます。
私の大学院時代の恩師である佐藤信彦先生は、「読書は急いで読んではいけない。じっくりゆっくりと味わいながら、またその行間や裏の意図まで考え考え読まないと、読書はなにも教えてくれない」と諭されました。まことにその通りだと、私はつくづく感じます。
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