「嫌なら辞めろ」は自由か強制か 職場や市場で直面する「見えない支配」とは 日本も無縁ではない「暴政株式会社」の罠

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私たちは通常、「車を壊されたくなかったら、金を払え」と言われればそれを「脅し」と受け取る。

一方で「保険料を支払っている限り、車の損害費用は補償します」という言葉は「約束」と受け取る。

しかし実際のところ、日々の経済活動における脅しと約束は私たちが思う以上に似通っている。

経済的概念としての「生産性」でさえ、ある労働者が辞め、新しい労働者を雇った場合に生産がどの程度落ち込むか、つまり被雇用者が「辞職の脅し」を実行した場合に雇用主にどの程度の損害を与えるかによって測られる。

経済的強制が蔓延していることに気づくとき、私たちは突然、資産所有者とそれ以外の人々とのあいだに驚くほどの力の不均衡があることに思い至る。

市場経済は、何十億人ものロビンソン・クルーソーたちが誰からも強制されずに喜んで協力し合いながら余剰品を取引しているユートピアではない。

現実には、比較的少数の人々が余剰資金を投資したり、不動産を貸し出したり、工場を生産的な利用に供したりする権力を握り、それ以外のほとんどの人々は、自分の労働力を売り、所有者階級の強制に従うか、さもなければ飢餓に苦しむしかない厳しい生存競争に賭けるしかないのである。

「私的政府」と化す現代の職場

このような私的暴政を隠蔽するもう一つの概念が、「プライバシー」と「公共性」の誤った区分である。

例えば、巨大なテック企業やソーシャルメディア・プラットフォームの言論統制に対して、「あれは私企業だから、気に入らなければ使わなければいい」という主張が、保守派だけでなくリベラル派からもなされることがある。

しかし、ミシガン大学の政治哲学者エリザベス・アンダーソンによれば、そのような言い方は「私」と「公」の意味について、恥ずかしいほど貧弱な理解しか持っていないことを露呈している。

アンダーソンが指摘するように、政府の支配がそこで終わり、個人の自由がそこから始まると想像される「私的領域」という概念は、特定の状況においては現実を反映していない。

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