「嫌なら辞めろ」は自由か強制か 職場や市場で直面する「見えない支配」とは 日本も無縁ではない「暴政株式会社」の罠

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「雇用主の自由と被雇用者の自由、ヘッジファンド・オーナーの自由と定年退職者の自由、独占的なテック系大企業の自由と個人消費者や零細企業の自由とのあいだには何の緊張関係もない」という虚構がまかり通っている。

しかし現実の経済状況は、資産所有者が経済力と国家権力を駆使し、自らに有利となるような環境をこしらえてきたことを露呈している。

ロビンソン・クルーソーの幻想と経済的強制

主流派の自由市場経済学者のあいだでは、市場取引は強制から自由であり、強制に代わる唯一の正しい選択肢を提供してくれるという指摘が事実上の教義となっている。

ミルトン・フリードマンは1962年のベストセラー『資本主義と自由』のなかで、何百万もの人々の経済活動を調整するには「軍隊や現代の全体主義国家にみられる強権の発動」か、「市場を通じて行われる個人の自発的な協力」の二つしかないと主張した。

フリードマンは、社会を「多くのロビンソン・クルーソーの集まり」と捉え、各世帯が互いに強制されることなく余剰品を交換し合うユートピアを描き出した。

しかし、コロンビア大学の法学者ロバート・ヘイルは、フリードマンが『資本主義と自由』を出版する40年も前に、この見解の誤りを突いていた。

ヘイルは、表向き強制のない社会における強制の真の広がりを見定めるためには、レッセ・フェール(自由放任主義)の個人主義者たちが「経済への政府の介入は、本来的に自由な選択を特徴とする制度に対する耐えがたい干渉である」と主張することの欺瞞に気づかなければならないと説いた。

ヘイルによれば、私有財産権の本質は、工場所有者が自分の土地や工場に侵入する者を締め出す権利にとどまらない。

それは「非所有者が工場所有者の財産に関わる労働を課せられる法的な義務を解除する」ことを工場所有者に認める権利でもある。

非所有者は、工場所有者のもとで働くことに同意し、賃金を得て食事を手に入れなければ餓死してしまう。

つまり、工場所有者は非所有者にたいして、文字通り「服従か、さもなければ飢えか」という強大な強制力を行使しているのである。

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