「嫌なら辞めろ」は自由か強制か 職場や市場で直面する「見えない支配」とは 日本も無縁ではない「暴政株式会社」の罠

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

現代のアメリカ社会もまさにこの状態にある。

公的機関は特定の分野においては絶大な権力を持つが、市場活動を規制しようとしない点において、私的暴政の蔓延を容認し、自らその一端を担っている。

中央の頭脳(政府)が弱いからといって機能していないわけではなく、社会全体を犠牲にして排他的な私的集団や階級的利害にとらわれがちな巨大な国家権力の姿がそこにはある。

多頭の怪物のように、無数の私的権力が個人の生活の隅々にまで入り込み、事実上の暴君として振る舞っているのが現代の資本主義社会の現実である。

「自由」という残酷な神話

このような私的暴政を見えなくしている最大の要因は、「自由」という概念の歪曲である。

西側社会、とりわけアメリカ社会では、自由は「資本主義的金融制度のもとでの、経済領域における自由奔放な個人主義的行動」と同一視されるようになった。

アメリカの哲学者ジョン・デューイは、1935年に発表した論考のなかで、自由の本質について明確に述べている。

ある時点における自由の条件を知りたければ、「究極的に力にあるということであり、例えば、従業員であるあなたが、高圧的な雇用主である私に、『こんな仕事、誰がやってやるか』と言い放つ自由があるか」を調べなければならないと指摘した。

つまり、仕事を辞めた後も生活が成り立つかどうかは、所与の労働市場における雇用主と被雇用者の相対的な力関係に左右される。

威張り散らす上司に抵抗したり、本当に意義のある仕事をしたりする自由は、所与の状況における上司と部下の「力の差」によって決まるのである。

理論のうえでは、誰でも「自由」にビジネスを始めて成功することができると信じ込まされてきた。

しかし現実の経済は、特定の資産所有者に圧倒的な権力を与えている。

デューイの観察によれば、自由とは、18世紀から19世紀初頭にかけて、指導的な政治家や知識人にとっては、世襲特権を有する貴族や国教会など封建的権威の残滓からの解放であった。

だが、産業革命以降、一部の者が行動の自由と資産を獲得する機会を独占した結果、広く大衆の機会は制約され、彼らが生まれながらの能力を発揮して自由に活動することが制限される事態となった。

次ページ「服従か、さもなければ飢えか」という強制力
関連記事
トピックボードAD
政治・経済の人気記事