3.11で内定を捨て気仙沼へ 「復興まちづくり→探究学習の支援」手がけるNPO代表の物語《気仙沼から能登へつなぐバトン》
日本で半年バイトをしてお金を貯めては、ワークキャンプに行くということを加藤さんは何度も繰り返しました。
長年隔離され、差別や偏見の中で生きてきた人々が暮らす村。そこに、専門性も言語能力も十分ではない大学生たちが泊まり込み、道を舗装したりトイレを設置したりする。夜には村人と食卓を囲み、酒を酌み交わしました。
「大学生の自分たちに何ができるんだろうと思いながらのスタートでした。そのうちに、同じ場所で共に時間を過ごすだけで、関係が変わっていく瞬間を目の当たりにしました。
遠巻きに眺めていた村外の人々も、いつしか仲間に加わっていくんです。地元の人々だけではどうしようもない、長年張りつめていた氷を、自分たちが滞在することで徐々に溶かすことができる。関係性が変わる。その体験が忘れられず、何度も通いました」
東日本大震災発生後、気仙沼で地元の人と生活を共に
2011年3月11日に東日本大震災が起きたとき、加藤さんは早稲田大学の4年生でした。3月末、東京都内の内定先企業に辞退する旨を告げて、加藤さんは宮城県気仙沼市に向かいました。がれきの片付けを手伝い、地元の人の家を間借りして生活を共にしました。
気づけば15年が経過。大学時代の中国のワークキャンプで知り合った妻と結婚、小学3年生の長男と小学1年生の長女と4人、今も気仙沼市・唐桑半島に住んでいます。
「中国でのワークキャンプも気仙沼の復興まちづくりも、支援というより“一緒にそこにいる”感覚に近かった」と加藤さんは振り返ります。
「最初から教育に関心があったわけではありません。2015年にまちづくり団体の事務局としてまるオフィスを立ち上げて数年は、コミュニティ誌を発行したり、漁師のPR事業を行ったり、カキやホタテを東京都内の居酒屋に売り込んだり、漁師体験などの観光体験プログラムを立ち上げたり……。復興に関わることならなんでもやります、という姿勢でやってきました」




















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