ジャカルタで20年「東急の中古電車」輸出の舞台裏 全盛期はまるで「インドネシア版田園都市線」だった
2000年代初頭は、鉄道会社の海外事業展開自体がまださほど一般的ではなかった時期だ。中古車両の輸出についても、輸出後にもし事故を起こしたらどうするのかといった反対論も根強かった。そのため、中古車両の輸出は売ったら終わり、日本側は責任を取らない、面倒を見ないという事例が一般的だった。
そんな中、どのようにして東急の車両は海を渡り、しっかりと整備を受けて長年活躍を続けてきたのか。晩年は元JR東日本の205系車両の陰に隠れ、やや不遇な最後になった面もあるが、実は水面下で8500系のさらなる追加譲渡の計画も動いていたという。
東急8000系・8500系はどのような経緯で譲渡され、その後のメンテナンスや部品供給などを含めたインドネシアとの関係はどのようなものだったのか。当初からインドネシアへの譲渡に携わってきた東急国際事業部フェローの太田雅文氏と、東急電鉄鉄道事業本部車両部統括部長の門田吉人氏に聞いた。
「屋根の上まで人」だった時代
――8000系・8500系はどのような経緯でインドネシアに渡ったのでしょうか。
太田:車両を輸出することになる前、2004年ごろにJARTS(海外鉄道技術協力協会)から依頼があって、ジャカルタを訪問する機会があった。当時はすでに元都営三田線の車両や元JR103系が走っていた。当社の8000系・8500系を置き換えるという話になったときに、その行き先として候補になるんじゃないかと思っていた。私は当時、管理部の総括課長を務めていたが、門田もその部署にいて、車両の経験があるということで一緒にやっていくことになった。
――JARTSから依頼があったということは、JARTSとしても輸出できる車両を探していたということでしょうか。
太田:違う。JARTSがKISS-RAIL(キスレール)という、日本の鉄道技術や街づくりなどを含めて海外に輸出できないだろうかということで勉強会のようなものをやっていて、それに参加していた。バリ島で会議があるということで、ジャカルタに寄って鉄道を見た。
朝のラッシュ時に行ったら、屋根の上に人が乗っているような状況だった。当時は冷房も利かないし、ドアも閉まらないような車両だったので、これは日本の中古車両を入れれば少しは改善できるんじゃないかなと感じた。




















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