といっても、あくまで道三個人の意志であり、義龍が美濃を掌握した段階で、何の意味も持たなかった。道三の死によって、信長は同盟者を失い、美濃を「敵国」として向き合わざるを得なくなった。
以降、信長は尾張を足場に勢力拡大のため、美濃への侵攻を繰り返した。美濃さえ制すれば東西の交通の要衝を押さえられる。逆にいえば、美濃を押さえられている限り、信長の西進はままならなかった。
しかし、信長の侵攻は思うように進まない。信長が何度となく侵攻しようとしても、義龍がその動きを素早く察知して攻撃を跳ね返すため、 美濃の壁が崩れることはなかった。
なぜ信長は手こずったのか。まず、義龍の居城・稲葉山城が、金華山の山頂に築かれた天険の要害だったこと。また、義龍の国内支配が極めて安定していたことも、信長が苦戦した要因として、挙げられるだろう。
というのも、父の道三は謀略によって成り上がった経緯や、その独裁的な手法から、国人たちの不満を抱えていた面があった。しかし義龍はその道三を自ら倒し、美濃の国人衆をまとめ上げている。
具体的には、6人の側近を「六人衆」として編成し、さらにその下に実務を担当する奉行人を配置。義龍の文書がなくても、六人衆の連署状(れんしょじょう)だけで、斎藤家の命令伝達および執行を可能にした。
外から信長が攻めてくるにあたって、国内が一枚岩になっていたことは大きな強みといえよう。
信長の兄弟に書状でアプローチし分裂を誘った
そして義龍自身の器量も見逃せない。父殺しという大きなリスクを冒して国をまとめた決断力と胆力は、並の武将ではない。
さらに、リーダーとしての統率力のみならず、父・道三の謀略的な才覚も受け継いでいたようだ。義龍は、信長の兄弟をターゲットに調略を仕掛けている。
弘治3年あるいは、永禄元年のいずれかの1月15日に義龍は信長の兄・信広に書状を送付。そこには、新年のあいさつとともに、太刀と鉄砲を贈ってくれたお礼を述べながら、太刀と鱈を返礼として送った旨が書かれている。




















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