斎藤義龍は大永7(1527)年、美濃の戦国大名・斎藤道三と、母は側室の深芳野の間に、長男として生まれた(生年や母親については諸説あり)。生涯に何度か名を変えており、元服した際には新九郎利尚(しんくろうとしひさ)と名乗った。
父の道三について「油売りから身を起こして美濃一国を奪い取った」という国盗り伝説は、耳にしたことがあるだろう。実際は、父の長井新左衛門尉との2代にわたる乗っ取り行為だったと言われている。
そんな父・道三から義龍は愛されなかったようだ。『信長公記』には「道三は智慧の鏡も曇り新九郎は耄者と計心得て弟二人を利口の者哉と崇敬して」とあるように、弟のほうばかりを可愛がったという。
「道三は知恵の鏡も曇ったのか、義龍は愚か者だとばかり思い込み、弟2人を利発だとして尊重した」
その結果、弟たちは図に乗るばかりで、義龍はないがしろにされてしまう。そして弘治元(1555) 年に義龍は、ついに行動に出ることになる。『信長公記』には次のようにある。
「義龍は外聞も悪いので無念に思い、10月13日から仮病をつかって奥に引き籠もり、寝ていることにした」
義龍は弟2人に対して使者を送ると、「重病で死も近いため、最後に対面して一言申したい」と告げている。そうして言葉巧みに屋敷におびき寄せると、酒を振舞うと見せかけて、家臣に弟2人を斬らせたという。
知らせを聞いた道三が気を動転させたのも無理はない。すぐさま法螺貝で軍勢を呼び寄せると、城下に火を放ったうえで、長良川を越えて山県郡の山中まで撤退。道三の危機に信長も尾張から軍を出している。
しかし、信長の軍は間に合わなかった。弘治2(1556)年4月、「長良川の戦い」で義龍は父・道三を討ち取ることとなる。
信長が義龍に手こずらされたワケ
道三は死に際して遺言を残しているが、娘婿のことをよほど買っていたらしい。娘婿とは、娘の濃姫を嫁がせた織田信長のことである。
妙覚寺に保存されている遺言状には、子を出家させ、美濃を信長に任せるとまで書いている。




















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