「親よりポトスか」植物好き幼子に父が抱いた畏敬。還暦前に親になったいとうせいこうさんが"ベビーカーからの目線"で知る季節

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ありがたいことにベランダでの水やりだの部屋の中でのハンギングだのを幼い時から目にしている子供は、外でも花や実に敏感で「あれはなに?」と聞くし、知らないうちにテレビで何かの花を観ていて「あれはツバキの花かな?」などと聞いてくる。

そこで俺はなけなしの知識を総動員して、「あれは東京には珍しいブーゲンビリアだよ」とか「ミニシクラメンの鉢だな」などと返事をする。

なかなか覚えてくれない花もあれば、しつこく毎日のように向こうから「ゴムの木があるね!」と感激してくれる植物もあって、俺にはそうしたコミュニケーションが何よりありがたいし、それを育ててきた町の人の日々に感謝の念を深くする。

どんな小さな鉢でもいい。買ったばかりで家の前のポーチに置いたのでもいい。東京下町の名物である“食べたビワの種を口から吐いたら芽が出たどころか、今では2階の窓まで木が伸びてしまった”というのでもありがたいし、なんなら世話不足のために庭先で枯れているのでもいいのである。

なぜなら、それが短く終わるだろう俺と子供の共有する時間を濃厚に埋めてくれる生き物なのだから。

生命の大きさと子供の感動

そういう気持ちで見始めた家の外の植物は、それまでとまるで違う。

いじけてねじ曲がった肥料不足のオクラとか、街路樹に巻き付いて今にも枯死する寸前のノウゼンカズラ(明らかに近所の誰かが種を蒔いたもの)とか、これまであまり興味を持てなかった南天の実とか、なんなら生け垣の世話が行き届かずに高さがまちまちになったカナメモチとか、もうありとあらゆる草花、樹木がすべて個性のあるキャラクターであり、そこからたどたどしい日本語が生まれ出てくる“意味の源泉”だからである。

犬を散歩してくれているおじさんおばさんも同様にありがたいのだが、植物は四季という俺の生命よりずっと短い時間で移り変わってくれるだけに子供との会話も自然に多彩になる(「花が咲いたね」「いい匂いがする」「テントウムシがついた!」「葉っぱの色がちがうね」「枯れちゃったのかな」「もうなんにもないね」)。

連れていく公園の中でも子供はドングリを拾い、イチョウの葉を拾い、さかんに樹冠を見上げ、根元から生え出た芽を見つける。植物の存在に慣れ過ぎた大人の俺では、その新鮮なはずの目が曇っている。

つい先日、それまでも何度も前を通っていた1本の杉の根元で子供が叫んだ。

「あ、こんなに大きな樹木がある!」

幼児の頃から木のことは「樹木」と教えてきたので言葉遣いもうれしかったが、何よりも突然その生命の大きさに気づいた子供の感動に、俺の心もいたく動かされた。

次ページわー、樹木大きい!
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