「埼玉=ダサいたま」のイメージが1980年代に”全国普及”したのはなぜ?当時の大宮・浦和・川越の街並みをアナログ写真と共に振り返る

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大宮西口共同ビル・DOM
大宮西口共同ビル・DOM(地権者の店)(写真:1984年09月、東洋経済写真部撮影)
大宮西口共同ビル・DOM
大宮西口共同ビル・DOM(地権者の店)(写真:1984年09月、東洋経済写真部撮影)
大宮西口共同ビル・DOM
大宮西口共同ビル・DOM(地権者の店)。Daieiのロゴが懐かしい(写真:1984年09月、東洋経済写真部撮影)

その埼玉県の主要都市・大宮では、1980年代に西口駅前の開発が一気に進んだ。1987年にはそごう大宮店が開店、1988年には当時の埼玉県内で最高層だった31階建ての大宮ソニックシティが竣工。オフィス、ホテル、商業施設、ホールなどが入る駅西口のランドマークとなった。

上越新幹線の開通が開発の起爆剤に

これら開発の起爆剤となったのは、1982年の東北・上越新幹線の大宮駅開業だった。

しかし、東北・上越新幹線の大宮-上野間の線路建設は、沿線住民の激烈な反対があり、当初の計画通りには完成に至らず。1982年には大宮-盛岡間が開業したが、この時点では、新幹線の乗客は、大宮-上野間を、在来線「新幹線リレー号」に乗り換えて移動する必要があった。その後85年に、ようやく新幹線の上野-大宮間が開通。

その国鉄時代を知る、のちのJR東日本幹部に聞いた話では、地権者の強固な反対があったこの区間に新幹線線路を建設するのは困難を極めたプロジェクトで、その妥協案として、新幹線用に予定されていた用地を使って、通勤線である埼京線が開通した経緯があったという。

その苦難が実を結んだということだろうか、東北・上越新幹線駅として利便性が向上した大宮の存在感は年々増し、また、東京都心とダイレクトにつながるようになった埼京線により、大宮、与野、浦和、戸田など、沿線各地の開発は徐々に進んでいった。

その後1986年には埼京線は新宿に、さらに96年には恵比寿に直通。そして2002年には大崎まで延伸して東京港湾岸部の臨海副都心まで行くりんかい線にも直通するようになった。

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