こうして始まった幕府による蝦夷地の調査は、最終的に千島、カラフトまでに及ぶなど、大きな成果を上げることになる。だが、天明6(1786)年に10代将軍の家治が亡くなり、11代将軍・家斉の治世となると、意次は罷免。このプロジェクトは打ち切られてしまう。新たに老中となった松平定信は、松前藩に再び蝦夷地の政策を任せる方針を打ち出した。徳内としても無念だったに違いない。
計9回も蝦夷地に渡り、”随一の蝦夷通”に
だが、その後も徳内は何度となく、蝦夷の地に入っている。計9回も蝦夷地に渡った随一の蝦夷通として、最上徳内の名は知られていくことになった。

こうして工藤平助の発案が意次を動かして始まった蝦夷地の調査および開拓は、中断を余儀なくされながらも、徳内をはじめとした後世に引き継がれていく。
【参考文献】
賀川隆行『崩れゆく鎖国』(集英社)
島谷良吉『最上徳内』(吉川弘文館)
後藤一朗『田沼意次 その虚実』(清水書院)
藤田覚『田沼意次 御不審を蒙ること、身に覚えなし』(ミネルヴァ書房)
真山知幸『なにかと人間くさい徳川将軍』(彩図社)
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