「国を富まし、そして窮民を救済せよ」田沼意次の北海道開拓に立ちはだかる障壁と”随一の蝦夷通”に引き継がれた野望

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このまま松前藩に蝦夷地を支配させるわけにはいかない――。意次は平助の献策を受け入れて、蝦夷地の調査に乗り出すことになった。

天明5(1785)年2月に調査隊は江戸を出発して松前へ。松前から目的地を東蝦夷地とするチームと、西蝦夷地とするチームで分かれた。このとき、東蝦夷地探検隊に加わったのが、江戸時代後期の北方探検家・最上徳内(もがみ・とくない)である。

蝦夷地調査で知られる最上徳内、はじめは"代わり”だった?

最上徳内は宝暦5(1755)年、出羽国村山郡楯岡村(現:山形県村山市)に生まれた。

幼少期から勉学への関心が高かったが、弟や妹の面倒を見なければならず、独学するほかなかった。塾に通う同年輩から話を聞いたり、書物を読んでもらったりしながら、読み書きと算術を会得してしまったという。

家業は農業のかたわら、タバコの栽培を営んでおり、徳内も10歳頃からタバコの行商に出かけて、仙台や津軽まで足を伸ばすこともあったという。そんなときも懐には必ず、漢籍や算術の書物を携えていた。

父が病没すると、当時25歳だった徳内は「江戸に出て身を立てよう」と決意。一周忌を待ってから江戸の地へ飛び込んでいった。

江戸では、医官・山田宗俊のもとでは医学を、永井正峯の塾では和算を学びながら、生涯の師となる数学者の本多利明(ほんだ・としあき)に入門を果たす。天明4(1784)年、徳内が29歳のときのことである。

本多利明のもとで腰を落ちつけた徳内は、天文学や測量・航海術などを学んだほか、蝦夷地についても知見を得ることになる。

なにしろ、師である本多利明は自ら「北蝦斎」と称したほどに、北方の開拓を持論としていたくらいだ。弟子である徳内もまた大いに刺激を受けることとなった。

意次が天明5(1785)年に蝦夷地に探検隊を派遣することを発表したときに、 利明は「幸甚なるかな、このときに逢うことを!」と快哉を叫んだという。探検隊隊員の青島俊蔵と仲が良かったため、自らも参加させてもらえるように願い出て、採用されている。

だが、出発前に利明は体調を崩してしまう。そこで利明が自身の代わりにと推薦したのが、最上徳内であった。東蝦夷地探検隊の一員として、徳内は大いに張り切ったことだろう。

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