「蝦夷地まで全域の開拓を広げ、国を富まし、そして窮民を救済せよ」
それこそが田沼老中が永遠に敬慕される大事業となるだろう――。それを聞いた用人は大いに感銘を受けて、「主人に申し上げるがゆえに文章にまとめてほしい」と伝えると、平助はロシアの研究書『赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)』を書き上げたという。
どこまで真実に即した記述なのかはともかく、意次は『赤蝦夷風説考』を受け取ると、内容の検討を勘定奉行の松本秀持に命じた。意次による、蝦夷地の開発プロジェクトの始まりである。
幕府による蝦夷地支配の障壁は松前藩
『赤蝦夷風説考』の「赤蝦夷」というのは、カムチャツカ地方の住民のことをいう。
本書では、ロシア人が東方に進出してきた歴史に触れながら、これから南下してくることを警告。であるならば、幕府が蝦夷地を支配し、いっそのことロシアと交易すべきだと説いた。ロシアが実は日本と交易をしたがっているという情報も、平助はキャッチしていた。
「蝦夷地を幕府の直轄として金銀銅山を開発し、それを交易にあてれば、ほかの出産物も増し、日本の国力も増すことだろう」
『赤蝦夷風説考』で、そんな提言までなされれば、意次も「すぐにでも着手せねば」と前のめりになったことだろう。
だが、当時、蝦夷地の支配は松前藩に任されていた。松前藩から上知(あげち)、つまり、領地を取り上げなければ、幕府の直轄地にできない、という事情があった。
松前藩が蝦夷地を支配するようになったきっかけは、文禄2(1593)年にまでさかのぼる。3年前に豊臣秀吉が小田原城の北条氏を滅ぼすと、蠣崎氏第5代当主・蠣崎慶広(かきざき・よしひろ)は前田利家らに取りいって、秀吉に謁見。蝦夷地の支配権を認める朱印状を下賜されている。
その後、徳川幕府を開いた徳川家康からも蝦夷地の支配権を認められると、慶長4(1599)年に蠣崎氏の名を「松前氏」と改めている。以後、松前藩は本州との産物の交易において税を課しながら、アイヌとの交易からも収益を得て、財政基盤を固めていく。
渡島半島の南部を「和人地」、それ以外を「蝦夷地」と明確に区分しながら、蝦夷地に和人が住むことを制限。また、アイヌ側は松前藩以外の和人と交易ができないように取り決めがなされていたという。
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