蔦屋重三郎と組んだ「喜多川歌麿」が抱いた"野心" 「ライバルを超える美人画を描きたい…」想いが実を結んだ作品
鳥居清長の美人画は、スラリと背の高い女性の全身を描いたもの(美人全身図)。それに対し、歌麿の美人画は、前述のように、女性の半身を描いたものでした。
歌麿のこの「新機軸」は、好評を博したようです。歌麿の美人画が、寛政年間の中期頃までは、この「美人大首絵」を主軸として展開することからも、その事がわかります。
山東京伝の悲劇
寛政年間(1789〜1801)、蔦屋は多くの歌麿美人画を刊行していきます。それらは、一枚摺り版画でした。「狂歌絵本」を出すとなると、出版経費が多くかかり大変ですが、一枚摺り版画なら、そうした心配がありません。
一方で、寛政3年(1791)、蔦屋の稼ぎ頭とも言うべき、戯作者・山東京伝の洒落本3部作『娼妓絹籭』『青楼昼之世界錦之裏』『仕懸文庫』が禁令を犯したことにより、京伝は手鎖50日の刑を受けます。
この打撃・痛手を挽回するために、蔦屋は、製作費が廉価な歌麿の美人画を多く刊行したのではないでしょうか。蔦屋の苦境は、絵師・歌麿にとっては、大きなチャンスとなったと言えましょう。
(主要参考引用文献一覧)
・松木寛『蔦屋重三郎』(講談社、2002)
・鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社、2024)
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