「マスメディアの敗北」は「ジャーナリズムの敗北」ではない 「信頼回復」と「真実追求」のための「科学と思想」
特集巻頭には、鶴見俊輔が1965年に発表したが、長く入手困難だった論考「ジャーナリズムの思想」を復刻して収めた。
「科学」については少し説明が必要かもしれない。真理を追求することにおいてジャーナリズムはアカデミズムの人文・自然・社会諸科学と同じ形式を有している。
しかし日々刻々と情報発信を求められるジャーナリズムの場合、時間に追われて自らの「科学」を十分に吟味できない。そこで日々の報道の流れから一度離れ、アカデミズムの議論を経由してジャーナリズムを再規定する必要が生じる。
たとえば鶴見はジャーナリズムを「現在おこりつつあるできごとを、それらの意味が判定できない状態において、未来への不安をふくめた期待の次元においてとらえる」作業だと定義した。
鶴見論文を解説する拙論では鶴見の仕事をソーシャルメディアの時代に再読する意義を説くとともに、「未来への不安をふくめた期待」を無署名的な事実描写に落とし込むジャーナリズムの作法を科学的に分析した玉木明の『ニュース報道の言語論』をあわせて取り上げた。
アカデミック・ジャーナリズムと大学出版
特集内の一本である山脇岳志氏の論考でも、社会心理学者などアカデミズムの担い手たちとの協働によってジャーナリズムの重要なインフラである世論調査をアップデートした実践の報告がなされている。
粥川準二氏はクリストファー・ノーラン監督の映画『オッペンハイマー』を例に、科学史(この場合は核技術開発史)を正確に踏まえた解読によって映画を論じるジャーナリズムが優れた科学技術社会論たりえることを示した。
須田桃子氏の論考は、研究不正など真理を追求する本分から逸脱しがちな科学界の現状を、市民社会を代表して監視する科学ジャーナリズムの役割を確認する。
この須田氏の議論は、アメリカで版を重ねているジャーナリズム論の基本文献“The Elements of Journalism”の最新版を翻訳した経験を経て日米のジャーナリズム観の差異を示した澤康臣氏の論考に通じる。澤氏は実名と匿名のいずれを報道で選ぶべきか、訂正謝罪記事はどう書くべきかといった日本の報道界で繰り返される議論を「パブリック」の概念の下に整理してゆく必要性を指摘する。
そして特集の最後を飾る論考では、アカデミズムとジャーナリズムを架橋する仕事を自ら数多く実践してきた編集者・斎藤哲也氏がアカデミック・ジャーナリズムの有力な担い手のひとつである大学出版局(部・会)を取材し、その現状を報告している。
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