ここまで4棟を見たところで、「ハイタウン北方」の歴史をたどってみよう。岐阜県庁の都市建築部住宅課を訪ね、話を聞いた。
その成り立ちは60年前、高度経済成長期にさかのぼる。
昭和40年から45年(1965〜1970年)にかけ、この地には1074戸の県営団地「長谷川住宅(北方住宅)」が建てられた。現在のハイタウン北方はその一部で、さらに広い敷地に構成されていた。
公営住宅係係長の宮崎良一さんに当時の資料を見せてもらったところ、そこには板状住棟が整然と並ぶ団地の光景があった。
また、国土地理院の地図で1970年代の写真を確認すると、田畑と戸建てが密集するなかに、大きな団地が存在していたことがわかる。

その後、建物の老朽化やライフスタイルの多様化、高齢化への対応などの社会的ニーズの変化にあわせ、平成2年(1990年)に建て替え事業が発足した。
一度に壊して建て替えたわけではない
「建て替え」と聞いて、一度に壊して建てることを想像し、住人の住む場所が気になった。しかし話を聞き、ブロックを区切って段階を踏んで建て替える方法がとられていたことを知る。
「住人の方には団地内の別のブロックへ引っ越していただき、ブロックごとで順番に建て替えていく計画で進められました。住人が退去した住棟を取り壊し、そこに新しい住宅を建て、完成したら住人の住まいを移します。そして空いた住棟を取り壊すという流れです」(宮崎さん)
長谷川住宅の南ブロックエリアから建て替え計画が始動し、「ハイタウン北方」が建てられた。当時の南ブロックには、板状住棟が40棟238戸あったが、8〜10階建ての高層のハイタウン北方は4棟430戸を収容する規模に。ここには身障者対応住戸や特定公共賃貸住宅も含まれている。

建て替えはほかのブロックも進行していたが、北ブロックに3棟建設したのちに、計画は終了。住人の移転のメドがたち、県有地の活用を踏まえて一部分譲地とするなど、長谷川住宅はその景色を変えた。かつて長谷川住宅だった敷地には、集合住宅のほか、北方町役場や生涯学習センター、戸建て住宅、ドラッグストア、コンビニなどが立っている。
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