「松平定信の批判本」を続々刊行 大儲けした蔦屋重三郎が食らった "しっぺ返しと悲劇"
しかし、現実の社会(江戸時代、天明年間)は、これとは真逆でした。天明3年(1783)には浅間山が噴火し、天明の大飢饉も発生し、農民は困窮していました。
そのような状況の中、松平定信は老中に就任し、儒教思想を尊重する政策を打ち出します。が、それでは、貧苦にあえぐ農民を救うことはできません。
『天下一面』は、現実とは真逆の世界を作り出すことにより「現実」政策を批判したのです。
『天下一面』は、刊行に際して、作者名や版元名も隠したままだったと言われていますが、それは、蔦屋重三郎が幕府の目を恐れたことが大きいでしょう。
幕府から下った命令と悲劇
慎重に刊行事業を進めた重三郎でしたが、『天下一面』を絶版にするよう幕府から命が下ります。重三郎と著者の参和に、追放処分などが下ることはありませんでしたが、危険を身近に感じた参和は、戯作を書くことを2年間は断念せざるをえませんでした。『文武二道万石通』を著した喜三二も、主君の佐竹氏から、威圧を受けたといいます。
喜三二も秋田藩留守居役という立場もあり、これ以降は、戯作の筆を折ることになりました。『鸚鵡返』を刊行した恋川春町は、幕府から呼び出しを受けますが、それに応じず、しばらくして、病没します(1789年7月)。
余りにも突然の死に自殺説もあるほどです。政治批評の黄表紙を刊行し、利益を得た蔦屋重三郎でしたが、思わぬしっぺ返しを食らったと言えるでしょう。挽回の方策は何かあるのでしょうか。
(主要参考引用文献一覧)
・松木寛『蔦屋重三郎』(講談社、2002)
・鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社、2024)
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