まだまだ駆け出しの蔦屋重三郎、なぜ売れっ子と仕事ができた?蔦重の文化人との交流の背景に迫る

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吉原の街で遊ぶために欠かせない出版物として、『吉原細見』は春と秋の年に2回、出版された。手堅く売れたため、版元にとって魅力的なコンテンツだったらしい。享保中期(1720年代)には、さまざまな版元が参入している。

だが、類書同士でシェアを取り合った結果、元文3(1738)年からは、鱗形屋孫兵衛版と山本久左衛門版に二分される。宝暦8(1758)年には山本久左衛門が撤退したことで、以降は鱗形屋孫兵衛が『吉原細見』のシェアをほぼ独占することになった。

その後、安永4(1775)年5月に手代(使用人)が重版事件を起こしたことで、主人である鱗形屋孫兵衛も処罰される。そんな事件に見舞われながらも、鱗形屋孫兵衛は同年に恋川春町作の草双紙『金々先生栄花夢』を出版。『金々先生栄花夢』はベストセラーとなり、以降「黄表紙」と呼ばれる新ジャンルを開拓している。

さらに、鱗形屋孫兵衛は人気作家の朋誠堂喜三二(ほうせいどう・きさんじ)に目をつけた。挿絵は恋川春町に担当させるというゴールデンコンビをプロデュースし、黄表紙を次々と出版している。

鱗形屋孫兵衛のピンチは蔦屋重三郎にも余波

だが、まもなくして重版事件の余波で経営状況が厳しくなり、鱗形屋孫兵衛は黄表紙の刊行をストップせざるを得なくなってしまう。

そんな落ち目の鱗形屋孫兵衛に取って代わるかたちで、蔦重が台頭した――。そんなふうに思われがちだが、実際はそんな単純な話ではなかった。

蔦重が鱗形屋と接点を持ったのは安永3(1774)年、25歳のときのことである。吉原で生まれ育ったため、事情通として認められていたのだろう。鱗形屋孫兵衛版の『吉原細見』の改め役、つまり、監修の役割を蔦重が担っている。

そして、鱗形屋が事件の余波で『吉原細見』を出せなくなると、蔦重は安永4(1775)年7月に『吉原細見』の出版に参入している。トラブルが起きた鱗形屋の隙をつくように行動を起こした蔦重は、その後は安永6(1777)年まで順調に出版点数を増加させた。

ところが、安永7(1778)年に刊行はストップしてしまい、出版物は『吉原細見』の一種のみ。翌年の安永8(1779)年にも『吉原細見』以外には、咄本2種のみと低調に終わっている。

一方の鱗形屋のほうはというと、安永4(1775)年5月に事件を起こすも、翌年の安永5(1776)年には13種の黄表紙を刊行。同年に江戸で出版された黄表紙の総数が23種なので、半分以上を鱗形屋が占めていたことになる。

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