全国の電化ローカル線を走った「旧型国電」の記憶 飯田線「流電」から最後の現役、本山支線まで
クモハ42形は戦前に京阪神地区向けに造られた電車がルーツだったが、「西の旧国」といえば文句なしにクモハ52形を挙げる。
1936年から1937年にかけて京阪神間の急行電車、つまり今でいえば新快速用に製造した高速電車で、先頭部には当時世界的に流行した流線形を採用した。流線形の外観から「流電」や「魚雷電車」などと呼ばれ一世を風靡した。

豊橋駅に停車中の「流電」クモハ42形(撮影:南正時)
飯田線の顔だった「流電」
1948年4月にはこの車両によって高速度試験が東海道本線の三島―沼津間で行われ、時速119kmを記録した。この車両も最後の地は飯田線で、1957年以降に転入し最終的にはスカ色となった。
晩年は高速性能を発揮することはなかったが、飯田線の顔として1978年まで活躍した。筆者は流電最後の姿を豊橋機関区で特写して当時の月刊鉄道グラフ誌『レールガイ』の表紙を飾ったのが良き思い出である。

豊橋機関区にたたずむ流電クモハ52形(撮影:南正時)

戦前の流線形ブームの時代に誕生し一世を風靡した流電クモハ52形(撮影:南正時)
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