被災地のシャッター通りで起業、高1と母の心意気 岩手県釜石市 スモールビジネスでにぎわいを
「釜石は遊ぶところが少ないし、おしゃれな服を買える店も少ない。“ないもの”ばっかりだけど、やりたいことを応援してくれる大人がたくさんいる。そういう大人たちが盛り上げようとしている仲見世で店を開きたかった」と、このシャッター通りに出店した意図を語る。
震災後「生かされた分、何かやらなきゃ」
母・梓さんは釜石市内の高校を卒業後、地元の釜石市役所に就職。高校時代は教員にあこがれていたが、家庭の事情などで進学を断念。「家族のいる地元で働こう」と市職員になった。
自身が当時、やりたいことを諦めた経験があるからこそ、「親の事情や親の考えで(子どもに)好きなことを諦めさせたくない」という気持ちがあるのだという。

市役所では総務課などに勤務し、22歳のときに同僚だった誠さんと結婚。翌年には長女の皐さん、その2年後に次女・暖(はる)さんを授かった。
実家から近い場所に新居を建て、家族4人での生活がスタートした半年後、東北地方の太平洋岸を襲ったのが東日本大震災の大津波だった。
当時、育休中で海のすぐ目の前の自宅にいた梓さんは、これまで経験したことのない揺れに津波の可能性を感じ、生後間もない暖さんを抱きかかえて高台に避難した。
そこから街が津波にのまれていく様子を呆然と見ていたという。その日は保育所に行っていた皐さんの安否は確認できなかったが、翌日再会でき、勤務中だった誠さんも無事だった。
一家はしばらく姉の家などで避難生活を送った後、みなし仮設住宅のアパートで暮らし始めた。育休を終え一度は職場に復帰した梓さんだったが、市職員の誠さんは復興にかかわる業務で多忙を極め、「万が一、もう一度津波が来たら……」と想像すると、少しでも子どもたちの近くにいたいと考え、退職を決めた。
専業主婦になり時間の余裕ができると、「被災した人たちのために自分にできることをしたい」と思うようになったという。
「幸い、うちは家族全員無事で、家を流されたといっても私自身の精神的ダメージはそんなに大きくありませんでした。生かされた分、何かやらなきゃって思いました」(梓さん)

梓さんがそう考えたのは、同級生が津波の犠牲になったことと無関係ではない。なぜ友人は亡くなり、自分は生き残ったのか……。答えのない自問自答を重ねるうち「生きているからにはやらなきゃいけないことがあるんじゃないか」と思うようになった。
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