蔦屋重三郎も大打撃?「鱗形屋」を次々襲った悲劇 本がヒットし成功を収めた鱗形屋だったが…
さて、話を鱗形屋の手代・徳兵衛に戻しましょう。
この徳兵衛、大坂の版元・柏原与左衛門、村上伊兵衛が刊行していた『早引節用集』を『新増節用集』と勝手に題名を変えて、無断で鱗形屋で売るということをしでかしてしまうのです。
ちなみに「節用集」とは、今風に言うと国語辞書のことです。他社の出版物を改題し、勝手に売り出した手代・徳兵衛は、家財欠所(財産没収刑)、十里四方追放(江戸の日本橋から半径五里=約20キロメートルの地域外への追放)という処分となります。
ところが、徳兵衛の処罰だけでは終わりませんでした。徳兵衛が勤務していた鱗形屋の主人・孫兵衛にも、監督が不十分だとして、罰金20貫文が科されたのです。
とは言え、鱗形屋に対して、今後、書物を刊行してはならないとの罰はくだらなかったので、事件の翌年(1776年)にも、鱗形屋は多数の黄表紙を出版しています。鱗形屋の社会的信用を低下させるような事件が起きたからこそ、それを多数の出版物の刊行で補おうとしていたのでしょうか。
鱗形屋の黄表紙の刊行がとうとうゼロに
安永5年(1776)には13種、安永6年(1777)には12種、安永7年(1778)には12種と順調に黄表紙を刊行していた鱗形屋ですが、安永8年(1779)になると、ガクンと下がって、6種にまで落ち込みます。
そして、安永9年(1780)には、鱗形屋の黄表紙の刊行がとうとうゼロとなってしまうのです。
大手の老舗版元の出版状況の落ち込みは、当然、その系列店にも影響を及ぼします。蔦屋重三郎も、鱗形屋の系列でした。重三郎も安永6年(1777)には出版数を順調に伸ばしていたのですが、安永7年(1778)には止まってしまいます。その原因は、やはり鱗形屋の経営状態にあったと思われます。この頃、鱗形屋の経営状態は悪化していて、それが系列にも波及したと推測されます。
そしてそれだけではなく、安永7年(1778)には鱗形屋に再び悲劇が訪れました。その出来事がきっかけで、鱗形屋は出版不能状況に陥ったとされています。
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