開業からの変化が激しい「波瀾万丈」の路線3選 元祖本格LRT路線は77年を経て「元のさや」に
夕張支線の線路は今も大部分が残っているほか、途中駅の清水沢駅から分岐し、現在のシューパロ湖畔に向かっていた三菱石炭鉱業大夕張鉄道(清水沢―南大夕張―大夕張炭山間)の南大夕張駅跡(廃止時の終点)には、ラッセル車「キ1」を先頭にして客車3両・貨車2両が砂利敷きのホームに停車する形で保存されている(冬季は見学休止)。
なお、北海道炭礦鉄道の遺構の一部が横浜市に存在しているのをご存じだろうか。JR桜木町駅前から赤レンガ倉庫などのある新港埠頭(人工島)へと向かう、かつての貨物線跡を整備した「汽車道」は、本土と埠頭を3つの橋で結んでいる。
このうち港一号橋梁と二号橋梁はアメリカン・ブリッジ社製だが、埠頭側の三号橋梁だけ趣が異なる。この橋梁は元々、1906年に北海道炭礦鉄道の夕張川橋梁として建設されたものの一部なのだ。
夕張川橋梁は、1928年に横浜の旧・生糸検査所引込線用に架設された大岡橋梁に転用された。この大岡橋梁は3連のトラス橋で、うち2連は総武鉄道江戸川橋梁、残りの1連が夕張川橋梁からの転用だった。さらに1994年に、みなとみらい21計画の新道建設に伴い大岡橋梁が撤去されると、夕張川橋梁に由来する1連が汽車道の港三号橋梁に再転用されたのだ。こうしてみると、この橋梁も波瀾万丈の運命をたどっている。
初詣でおなじみ、京急大師線の「伸縮」ぶり
最後に見るのは京急大師線だ。大師線は時代の変化に応じて路線の延伸と短縮を繰り返してきたという、ダイナミックな歴史を持つ。
大師線の前身・大師電気鉄道は、東日本初の電気鉄道として1899年1月に六郷橋―大師(現・川崎大師)間で開業。官営鉄道の川崎駅から、やや距離が離れた六郷橋のたもとに始発駅が設置されたのは、人力車夫による反対運動を受けてのことだった。
大師から先(臨海部方面)への延伸は、当初は海岸電気軌道という京浜電鉄(大師電鉄から改称)の子会社によって行われた。もともと、京浜電鉄は「海浜遊覧」を目的として大森から大師を経由し、鶴見までの沿岸部を結ぶ生見尾(うみお=当時の鶴見の地名)支線の敷設を出願していたが、これは後発企業による路線出願を防ぐための、予防的な側面が強かった。
だが、その後に浅野総一郎らによる、いわゆる「浅野埋立」が開始されると状況が一変する。鶴見・川崎沿岸部を大規模に埋め立て、工業地帯化するという同事業は、1913年に着工。埋め立てが完了したエリアから順に、浅野セメント、日本鋼管、旭硝子といった企業が次々と進出し、工場の建設に着手した。
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