北九州・暴力団本部跡地に福祉施設が建つ意義 社会から排除される人を出さない「まち」作り
この地には、北九州市に地盤がある特定危険指定暴力団工藤会の本部事務所があった。特定危険指定は、日本全国で工藤会だけだ。工藤会は、その前身時代の1990年代から、追放運動を行う市民に執拗な攻撃を仕掛けてきた。九州電力会長宅に手榴弾が投げ込まれた事件や、県警OBの家への放火事件への関与が疑われている。会の意向に従わない組員を殺害することもあった。
県は、資金源を断つために全国初の暴力団排除条例を制定。2019年に工藤会は福岡県暴力追放運動推進センターが本部のあった土地を買い上げることに同意した。建物の解体費用などを除いた売却益は、工藤会による襲撃事件の被害者への賠償に充てられることになった。
だが、組織からの報復を恐れてか買い手が見つかるのに難航した。土地を購入した事業者が「福祉に役立てられれば」といった趣旨のコメントをしているのを報道で知り、抱樸が手を挙げた。
ホームレス襲撃事件が発生した土地
この予定地は、抱樸の理事長、奥田知志さんにとって意味深い場所だそうだ。ホームレス支援を始めて2年目の1990年、地元の中学生によるホームレス男性への重篤な襲撃事件が起きた。中学生らが深夜の2時に路上で寝ていた男性の頭にコンクリートブロックを落とした事件だ。奥田さんは抗議と再発防止を訴えて、教育委員会や中学校を回ったが、当の被害者男性は言った。
「深夜にこんなことをする中学生は、家があっても心配する人がいないのではないか。俺はホームレスだから彼の気持ちがよくわかる」
その言葉は衝撃だったと奥田さんは言う。「当時、少年たちには何もできなかった。今では40歳か50歳になっているだろうか。だからこそ、ここに希望のまちを作りたい」。
北九州という土地には、この少年たちやホームレスのように社会に居場所を見いだせない人たちが多く存在する。北九州市は、1901年(明治34年)に創業を開始した官営の八幡製鉄所が置かれた鉄の町だ。内陸部には近隣の市町にまたがる筑豊炭田が広がっていた。水運にも恵まれ、北九州工業地帯が形成され、九州、中国、四国地方から人を集めた。人々は港湾、炭鉱、土木などの仕事に従事した。
だが、1970年代になると、エネルギーの供給は石炭から石油に移る。その後、鉄鋼業の衰退期が続く。経済的な失速の中で行き場を失った人々の一部は路上生活を送ることになった。暴力団は中学を卒業した若者たちを勧誘していたとの報道がある。暴力団は、就労が難しくなった人たちの受け皿になった側面もあった。
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