早く笑いのピークに到達したい。特大のホームランを打ちたい。だから、「到達したいゴール」に到達するため、「打ちたいホームラン」を打つために、策を巡らせたくなる。気持ちは痛いほどわかります。
でも、「このゴールに到達するために、ここでちょっと布石を打っておこう」みたいなくだりをネタに入れてしまうと、とたんに予定調和になってつまらなくなってしまうんです。
正直、もったいなく感じます。漫才師がコント師に唯一勝てるのは人間同士のしゃべくり、いわばナマの人間のエネルギーやのに、それをしっかり出せていないわけですから。
見ている人に「このはちゃめちゃな立ち話は、いったいどこに行くんだろう?」と思わせる先の見えなさこそが、漫才の醍醐味です。
一度もボールを落とすことなくラリーを続け、最終的にはとんでもない熱量の到達点にバコーンと上げていく。それが漫才の理想形やと僕はつねづね思ってるんです。
僕らNON STYLEの原点は、路上で見知らぬ人たちの前でやる「ストリート漫才」です。道を歩いている人の足を止めさせ、僕らの掛け合いの「熱」で引きつける。布石としてのボケやツッコミをしている余裕なんて、少しもありませんでした。
そこで作り上げた2人のエネルギーを全力でぶつけるスタイルがあったからこそ、M-1でも優勝できたんやと思っています。
今までの賞レースを見ていても、いろいろなスタイルがあるなかで、最終的には「一番の熱量を帯びていた漫才師」が優勝しているように感じます。コント師の発想力や設定の作り方はすごいけど、競り勝つには、やっぱり漫才やと僕は思う。
でも、これからはわかりません。
ここ何年かのM-1でも、共闘型のコント漫才が毎回かなりいいセンまでいくようになってきているので、近い将来、コント師の漫才が頂点に立つ可能性は十分あるでしょう。ただ、僕としては、「漫才師のみんな、がんばれよ」と思ってしまいますね。
「漫才じゃない」の元祖ジャルジャル
「漫才じゃない」ともっとも言われてきたのは、おそらくジャルジャルでしょう。それが特に顕著だったのはM-1ですね。
決勝まで進んでも、いまいち点数につながらない。2010年に初めて決勝進出したときにも、審査員の松本(人志)さんから「これを漫才と取っていいのかどうか?」と、はっきり言われていました。
世界観と展開がコント的、なおかつ独特すぎて、「これは漫才じゃないんじゃないか」という見る側の引っかかりが壁になってしまう。そのために何度、彼らは悔し涙を飲んだことか。
それが2018年のM-1決勝の1本目、ずっとジャルジャルに厳しかった中川家の礼二さんが高得点をつけました。
「ジャルジャルは漫才の振りで入るコント」というのが、礼二さんの当初からのジャルジャル評。礼二さんはジャルジャルの面白さを前々から認めていましたが、ご自身にはずっと大切にしてきた王道の漫才スタイルがあります。面白いとは思っても、M-1のような舞台でジャルジャルに安易に高得点をつけるわけにはいかなかったんやないかと思います。
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