消える「街場のすし屋」営業継続が難しい深刻理由 一等地の高級店やチェーン店にない魅力はあるが
後継者問題に頭を悩ませるのは“名物店”も例外ではない。
東京・東中野の名登利寿司で女将として働く佐川芳枝さんは、1995年に出版した『寿司屋のかみさんうちあけ話』(講談社)などの著作が大きな反響を呼んだエッセイストでもある。
芳枝さんの近作『寿司屋のかみさん 新しい味、変わらない味』(青春新書インテリジェンス)を読むと、名登利寿司の人手不足を女将が支えてきたことが分かる。
結婚した際、店は夫の和宏さんと右腕である“若い衆”の2人が切り盛りし、さらに夫の両親もすし飯の調理や洗い物を担当して店を支えた。ところが時代が進むにつれ、こうした「店を支える職人・スタッフ」が不足していく。
「昔の“若い衆”は薄給と長時間労働が前提でした。その分、給金を貯金させ、のれん分けを許されて独立することも保証されていましたが、80年代後半から若い人の理想と合わなくなったのです。
バブルが崩壊した時点で、“若い衆”の人手不足は明らかでした。そのぶん、女将である私がフォローすることも多くなりました。
私は78年に調理師免許を取り、夫から仕事を厳しく教えられました。魚の下ごしらえを手伝い、焼き物や煮物、巻物の調理は今でも私が担当しています」(芳枝さん)
「女将」の後継者不足も深刻
また昭和のすし店は、出前が大きな収入源となっていた。店屋物と言えばすしかソバだけという時代が長く続いた。
今はコンビニもファミレスもあり、オンライン宅配サービスが和洋中の料理を自宅に届けてくれる。街場のすし屋は経営が苦しくなり、後継者不足を加速させた。
芳枝さんは「後継者不足も問題ですが、実は女将さんの後継者不足はもっと深刻なんです」と言う。
東中野の名登利寿司は息子の豊さんが二代目として後を継いだ。だが豊さんの妻は美容室を経営しており、女将の後を継ぐことはできない。
もし芳枝さんが“卒業”すれば、ホール担当のパートを雇用することになるが、これまで芳枝さんが担ってきた下ごしらえや、酒のつまみなどの調理を頼むのは難しい。
芳枝さんは「息子は厳しい修行を積んでいます。全てのことはできますよ」と笑うが、二代目の豊さんが人手不足のリスクを背負っているのは間違いない。その豊さんが言う。
「私は一度、会社員になりましたが、行き詰まりを感じていた時、『父の後を継ぐのもいいかな』との考えが浮かびました。父の店は繁盛していましたから、“お手本”が身近にあったのも大きかったと思います。
一人前のすし職人になるには最低でも7年の修業が必要です。今の若い人にとっては長すぎる時間かもしれません。
やる気のある若い人は高級すし店に弟子入りします。安定を優先する人は大手の回転ずしに入社します。街場のすし屋で働きたいという人は少なく、私は街場のすし屋の未来には悲観的な考えを持っています」