すると、アドラーはとても怒り、「自分は一度だってフロイトの生徒であったことも、弟子であったことも、支持者であったこともない」と大声を出して反論したそうです。
似た出来事は、アドラーの60歳の誕生日の日にもありました。
彼がウィーン市から名誉市民の称号が与えられる公の席でウィーン市長がアドラーを「フロイトの功労のある弟子」と紹介したのです。アドラーは深く傷つき辱められた思いを抱いたようです。
普段は激怒するようなこともなく、温厚で寛容だったと彼の弟子や子どもたちによって語られているアドラーです。したがって「フロイトの弟子」扱いは、彼にとって怒りの導火線になっていたことがわかります。
さて、1911年にフロイトと袂を分かつことになったアドラーですが、その後、精神科医療の世界にもとどまらず、ウィーンのカフェテリアで人に会い、議論を重ねる市井の人として心理学を深めていきます。
アドラー心理学は、心を病んだ人ではなく、健康な人、普通の人のための心理学として発展を遂げていくのです。
さらには、医師として従軍した第1次世界大戦も大きな分岐点となります。
1916年、アドラーは軍医として大戦争を経験します。そこで大勢の負傷者やトラウマに苦しむ人たちと接することで、人間と人間とが手をとり合い協力することの大切さを感じたアドラーは、人間を育てること、教育に関心をもつのです。
子どもの教育についても研究し、子どもが自己の能力を発揮し、社会的な関係を築くためには、適切な教育と支援が必要であると主張しました。 患者をもつ精神科医というよりは教育者になり、「教育」に重要感をもって取り組んでいったのです。
アドラーがわかりづらい理由
やがてアドラーは、オーストリアだけでなく、ドイツやイギリスなどヨーロッパ各地で講演をするようになります。さらには、1926年、初のアメリカ講演旅行に出かけます。
そこで人気を博したアドラーは、1930年代のアメリカにおいて最も謝礼の高い講演家となり、お抱え運転手付きでアメリカ各地を飛びまわることになったのです。
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