筆者が監修した『いっきに学び直す日本史』の2冊は、『大学への日本史』をリニューアル復刊したものです。監修者としては、旧刊に込められた故・安藤達朗氏の歴史への熱い思いを読者が酌み取ってほしいと願うのと同時に、旧刊が書かれた1970年代以降の日本史学の新たな知見を盛り込むことを意識しました。
歴史を学ぶとは、事件の年号を覚えることではありません。基礎的な知識は不可欠ですが、なぜその出来事が起きたのか、結果としてどんな影響があったのかを、論理的に説明できなければ歴史を理解したことにはなりません。本稿では、『いっきに学び直す日本史』を参考にしつつ、日本史をより深く理解するため七つの講義をしてみましょう。

かつては日本独自の墓といわれた前方後円墳。大阪府の大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)や誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(伝応神天皇陵)は、全長400㍍をはるかにしのぐ巨大な規模で、現在、世界文化遺産への登録を目指しています。
独特の形状を持つ前方後円墳がどのようにして出現したのかについては、これまで研究者の間でもさまざまな意見が提起されてきました。
1960年代には「大和盆地に突然、前方後円墳が出現した」と考えられ、この地方で勢力を伸長した大和王権に関係する大王の墳墓とも考えられていました。
また、日本列島各地で同じような前方後円墳が見られることから、日本独自の墳形と特別視された時期も長くありました。近年では、年代は古くないものの朝鮮半島南部でも明瞭な前方後円形の古墳が発見されています。
弥生の周溝墓が発展?
今年5月、奈良県橿原市の瀬田遺跡から、周溝の一部が切れて突出部となった弥生時代終末期(2世紀中葉〜後半)の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)が発掘され、「前方後円墳の祖型発見」と大きく報道されました。
それまで弥生時代の墓制は、1964年に東京都の宇津木向原遺跡で発見された方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)が全国各地で見つかっていました。ところが80年代に全国で発掘調査が急増した頃、岡山県の楯築(たてつき)遺跡で、従来は見られなかった明瞭な墳丘(土盛り)を伴う弥生時代の墳墓が発見され、後に弥生墳丘墓と命名されます。
方形周溝墓は、弥生時代前期から古墳時代前期まで継続して全国で築造されていますが、弥生墳丘墓は弥生時代後期にいくつかの地域だけで見られ、その形態も前方後円形、前方後方形、帆立貝形などさまざまです。
そこで考えられたのが、1. 瀬田遺跡で発見された「突出部を持つ円形周溝墓」が、2. やがて「前方後円形墳丘墓」となり、3. ついで纒向(まきむく)石塚古墳などのような全長100m内外の「纒向型前方後円墳」に発展して、4. さらにこれが定型化した前方後円形の墳丘を持つ最古の古墳「箸墓(はしはか)古墳」につながっていった、という仮説です。現在では、前方後円墳はこのようにしだいに墳形が発達して成立したと考えられています。
箸墓古墳を祖とする前方後円墳は、古墳時代の5世紀までに大仙陵古墳のような大型墳墓に発展し、同時に関東や九州など全国に広がっていきます。

日本に公的に仏教が伝わったのは538年。朝鮮半島にあった百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)から、正式に仏像と経典が献上されました。
この新宗教については、政権の中枢を担う大臣(おおおみ)の蘇我氏が積極的に信仰を推進しようとする一方で、大連(おおむらじ)の物部(もののべ)氏が旧来の在地の古代信仰の固持を唱えて崇仏(すうぶつ)論争を展開し、最終的には蘇我馬子が厩戸王(うまやどおう)(聖徳太子)と組んで物部守屋(もりや)を滅ぼします。これによって、飛鳥地方を中心に多くの仏教寺院が建立されるようになりました。
このときの代表的な寺院が、大和盆地の斑鳩(いかるが)の地に推古天皇や厩戸王らが建立した法隆寺です。用明(ようめい)天皇の病気平癒を祈願して、607年に完成したと伝えられます。
天皇家が積極的に推進
672年、壬申の乱に勝利して成立した天武・持統朝になると、藤原京を整備し、その京域内に国立寺院の大官大寺が建立されました。この7世紀後半という時代は、鳥取県の上淀廃寺(かみよどはいじ)遺跡に見られるように、地方にもかなり仏教文化が浸透していたことがわかっています。
奈良時代に入ると、天皇と皇族を中心に積極的な仏教興隆政策が推進されました。その主眼は、鎮護国家を目的とする国家仏教の興隆にあります。そのために、鎮護国家を説く「金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)」「仁王経」「法華経」が特に尊重され、これらの経典を学ぶために、南都六宗(三論、成実(じょうじつ)、法相(ほっそう)、倶舎(ぐしゃ)、華厳(けごん)、律の各宗)の教えを兼ねて研究し、学ぶことが提唱されました。そして、南都七大寺(大安寺、薬師寺、元興寺、興福寺、東大寺、西大寺、法隆寺または唐招提寺)の建立・整備が推進されました。
これら奈良仏教の興隆が頂点に達したのが、聖武天皇による741年の「国分寺、国分尼寺建立詔(みことのり)」と、743年の「東大寺大仏造立詔」です。各国には、金光明四天王護国之寺=国分寺と、法華滅罪之寺=国分尼寺を建立させ、東大寺をその総本山としました。そして、巨大な盧舎那仏(るしゃなぶつ)(大仏)の造立を命じ、ほぼ10年の歳月を費やして、752年に開眼供養が執り行われました。
しかし、このような大掛かりな仏寺の建立・造営や大仏造立事業は、当時の律令国家体制において租税の担い手であった班田農民に過重な負担を課すことになります。最終的には、これが班田制の崩壊と荘園制の萌芽を生み出す結果につながっていくのです。

10世紀に入ると、律令体制下で中央から地方に派遣される国司は、統治より徴税業務に主眼を置き始めるようになり、地方武士団はその警護役として、中央から追捕使(ついぶし)や押領使(おうりょうし)といった職に任命されることを望むようになります。また、荘園制が定着した地方では、地元の豪族たちが私有地の拡大を図るためにほかの豪族と対立し、さらに国司層との対抗要素としても武装化を進めるようになりました。
このような地方武士団との間に、その所領地の「本領安堵(あんど)」という土地私有権の確認を行い、個別の主従関係契約を結ぼうとしたのが、源頼朝による鎌倉幕府の政権です。
10年を要した幕府の完成
その頃、中央では平氏が権勢をほしいままにしており、これに反発して1180年、後白河法皇の子の以仁王(もちひとおう)が挙兵。すぐに頼朝も流刑地の伊豆(静岡県)で兵を挙げます。頼朝は石橋山の合戦では敗れるものの、房総半島に逃れて再起。この年、鎌倉に入り、侍所を設置します。これは自分の配下たる御家人を統制するための役所であり、後の幕府の中枢となる機関でした。
1183年になると、信濃(長野県)の源義仲が挙兵し、平氏を京から追放します。そして同年10月、後白河法皇から頼朝に、「東国支配権公認」の宣旨が下されます。
この時点では、尾張(愛知県)から関東全域までは頼朝が支配し、信濃から北陸、畿内、備中(岡山県)までは義仲が、安芸(広島県)から四国、九州までは平氏が支配するという、3勢力が鼎立している状況でした。
1184年、頼朝の代参である弟の源範頼、義経らが義仲を近江(滋賀県)で破ると、同年10月、頼朝は鎌倉に公文所(くもんじょ)、問注所(もんちゅうじょ)を設置しました。前者は後に政所(まんどころ)となる政務全般と財政を担当する役所で、後者は訴訟や裁判業務を担当しました。
1185年に長門(山口県)の壇ノ浦で平氏が滅亡すると、対立関係が激化した義経を追討するため、頼朝は同年、「守護、地頭の設置任命権」「兵粮米の徴収権」を獲得します。ここに、鎌倉殿たる頼朝と、守護・地頭たる個別武士層との封建的な主従関係が成立するのです。
1192年、頼朝は念願の征夷大将軍に就任し、名実共にこの主従関係を確固たるものにしました。
幕府では、将軍が個々の御家人に対して「御恩」たる本領安堵、新恩給与をする一方、御家人は将軍への「奉公」たる軍役、公事(くじ)(さまざまな雑事)、番役奉仕(鎌倉や京での警備)を行います。これが、鎌倉幕府の主従関係の根幹でした。御家人は惣領として一族をまとめ、武士団を構成して所領を支配していました。

1590年、全国統一を目前にした豊臣秀吉は、その最終段階として相模(神奈川県)小田原の北条氏を攻め、これを滅亡させます。北条氏の領地だった関東の約250万石は、徳川家康に与えて駿河(静岡県)からの移封を命じます。ここに徳川家と江戸の関係がスタート。家康は広大な関東平野に着目し、河川改修や江戸城下の建設などの事業を精力的に展開します。
それから8年の後、秀吉が病死すると、その後継を争う関ヶ原の戦い(1600年)に勝利した家康は、1603年に征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開きます。そして直ちに村々の名称とコメの収穫高を明記した郷帳(ごうちょう)、国絵図(くにえず)を全国で作成させ、さらに大名の石高に合った手伝(てつだい)普請(ぶしん)として、江戸城、伏見城(京都府)、駿府城(静岡県)などの築城・改修事業への動員を命令します。
1615年、大坂の陣で豊臣家を滅亡させ、名実共に徳川家の天下となると、伏見城に諸大名を集め、2代将軍秀忠の名で武家諸法度を発布し、大名への統制強化を図ると同時に大名に幕府への忠誠を求めます。
3代家光の時代に完成
幕府が大名に求めた忠誠の証しとして代表的なものが、参勤交代の制です。実は関ヶ原の戦い前後にも、徳川側についた諸大名が、異心がない証しとして母や妻子を江戸に送った事例があり、これが参勤交代制の始まりといわれています。
2代将軍秀忠の時代にも、ある程度定期的な江戸への参勤が課されていましたが、制度としての参勤交代が確立したのは3代将軍家光の時代。1635年の寛永の武家諸法度で、毎年4月には江戸参府と規定され、約1年間は江戸に滞留することが求められました。
幕府が参勤交代を各大名に課した意図は、いくつか挙げられます。
第1に、大名が毎年江戸に参府することで、徳川将軍家への忠誠を示す儀礼を制度化する点です。
第2には、大名は参勤交代するために毎回多数の家臣団を引き連れるため、これが軍役を代替するものという意味を持っていた点です。
そして第3に、参勤交代にかかる諸費用(往復経費、将軍家への贈答経費など)が大名にたいへんな負担になる点です。その出費は藩財政を逼迫させました。
当初、参勤交代は外様大名だけを対象としたものでした。しかし、寛永年間の飢饉を契機に、譜代大名もこの制度に組み込まれていきます。最終的には、水戸徳川家は江戸に定府(じょうふ)(年間を通して江戸に詰める)、対馬藩宗氏は3年に1回、関東の諸大名家は半年ごとの参勤となりました。

1853年の米国東インド艦隊司令長官ペリーの来航と開国要求は、太平の眠りを覚ます大事件でした。翌年には日米和親条約、4年後には日米修好通商条約が締結され、日本は世界貿易の大きな波にのまれていくことになります。
これら一連の外圧とは別に、幕府は内治においても、反幕・排外の尊王攘夷思想の拡大に頭を悩ますことになります。
強権強引政策をとった大老・井伊直弼が1860年に桜田門外で殺されると、老中の筆頭となった安藤信正は、公武合体政策を推進するための皇妹和宮の降嫁に成功。しかし、各地では尊王攘夷運動が活発化し、外国人襲撃事件は日常的に頻発しました。
この頃、藩政改革に成功した西国雄藩の発言力が、徐々に幕政にも影響力を持つようになってきます。
強引に負債を整理
毛利氏の長州藩(山口県)は、村田清風を登用して巨額の負債を長期返済で解決し、専売制も強化して藩財政の回復に成功しました。
島津氏の薩摩藩(鹿児島県)でも、調所(ずしょ)広郷を家老に抜擢して巨額の負債を250年返済で解決。黒砂糖の専売、琉球との密貿易で利益拡充を図りました。
ほかにも、宇和島藩(愛媛県)、土佐藩(高知県)、越前藩(福井県)などが藩政改革に成功、藩財政の好転を図っていました。
藩政改革に成功した藩の多くは、開明的な藩主の下、近代兵器類の購入(長州藩、長岡藩〈新潟県〉)や、近代産業施設の拡充(薩摩藩、佐賀藩)を行ったため、開国の恩恵を一番に受けたといえます。
幕府の中にも欧米式の近代化に努める動きがありました。江川太郎左衛門が主導した伊豆国反射炉(製鉄所)や江戸湾品川砲台の建設、勝海舟らが活躍した長崎港海軍伝習所の設置はよく知られます。
さて、公武合体の動きに反発した長州藩は、1864年の禁門の変(蛤御門(はまぐり ご もん)の変)で敗れ、続く第1次長州征伐で窮地に陥りますが、1866年に薩長連合が結ばれ、この連合により武力討幕の動きが一気に加速します。
これに対して、急死した14代将軍徳川家茂に代わった15代将軍徳川慶喜は、朝廷に大政奉還を行い、武力討幕の芽を摘もうとしました。しかし偶然、同じ日に朝廷からの討幕の密勅が出され、幕府は滅亡に向かいます。
明治維新は、関ヶ原の戦い以来積年の、幕府・徳川家対長州・毛利家、薩摩・島津家の権力争いに加え、両者の裏に立つフランスとイギリスの支配権をめぐる対立、そして幕府対朝廷という政権奪取争いが絡んだ出来事でした。

江戸時代の17世紀後半、三井高利が江戸・日本橋に呉服屋(現在の三越のルーツ)を開き、「現金掛け値なし」の新商法で隆盛を極め、両替商も兼ねて財を成したのが三井の始まりです。明治になると、当主の三井高福は維新政府の官金扱い業を担い、1876年に三井銀行と三井物産を設立。米穀の集荷・販売業務を推進して、呉服・両替商からの転身に成功しました。
一方の三菱のルーツは明治初期。岩崎弥太郎が1870年に九十九(つ く も)商会を設立したのが始まりです。1873年に三菱商会に改称すると、翌1874年の台湾出兵、1877年の西南戦争で政府側の兵員・物資の輸送を独占して多大な利益を上げます。その間、三井系の郵便蒸気船会社を吸収して郵船汽船三菱会社を設立。1885年には共同運輸会社と合併して日本郵船会社へと発展させます。
有利な払い下げで急成長
彼らが明治維新後の新政府の保護を受ける政商として頭角を現した背景には、1880年代に相次いだ、民間資本の拡充・育成を意図した官営事業の有利な民間払い下げで、大きな恩恵を受けたことがありました。
1887年に三菱に払い下げられた長崎造船所は、戦前には戦艦武蔵を建造、現在は三菱重工業長崎造船所となっています。生野銀山と佐渡金山の払い下げは1896年。共に三菱の主要な鉱山となりました。世界文化遺産になった群馬県の富岡製糸場は1893年に三井へ、同じく世界文化遺産の福岡県の三池炭鉱も、1889年に最終的に三井の管理下になります。
ところで、政商は後に財閥と呼ばれるようになりますが、この呼称は、1900年前後に富豪を指して頻繁に使われるようになった言葉でした。その特徴は、(1)一族による閉鎖的な企業支配、(2)鉱山、工業、造船、海運、金融などの多角的な事業経営、(3)一族グループでの独占的な産業の支配体制、の3点にありました。
1920年代になると、オーナー一族が共同出資形式で本社を設立し、各事業部門を株式会社化して独立させる、コンツェルン形態が生み出されました。三井家は、三井合名会社を設立すると同時に、三井銀行、三井物産、三井鉱山などを株式会社化し、財閥本社は事業全体の統括をするだけでなく、傘下会社の持ち株会社として莫大な利益を上げていくようになります。こうして、巨大財閥が作り上げられていくのです。

1914年、欧州で第1次世界大戦が始まると、同盟関係にあった英国から、日本も参戦するよう依頼されます。時の大隈重信内閣は、帷幄(いあく)上奏事件やシーメンス事件などで政治的に混乱していた状況から、最初は参戦に消極的でした。日露戦争後の不況もまだ続いていました。ところが、元老たちから「天祐」「千載一遇たる機運」とする意見が強く出され、参戦へと舵が切られました。
大戦は予想に反して長期化し、日本は主な戦場から離れていたことから、異常なほどの好況となります。特に造船、製糸、海運業の伸びは目覚ましく、繊維産業ではヨーロッパの列強がアジア市場から撤退したため、日本の綿糸・綿布などは中国市場を席巻する勢いとなりました。
生糸も最大の輸出先だったヨーロッパ市場は失うものの、逆にアメリカに輸出され、その依存率がハネ上がりました。1915年には貿易収支も入超から出超へと改善し、1920年には債権国へと転換します。
金解禁が恐慌を加速
しかし大戦が終結すると、繊維相場の暴落をきっかけに、一転して戦後恐慌が始まります。1923年には関東大震災により震災恐慌が、1927年には大蔵大臣の失言から金融恐慌が起こり、日本経済は急激に悪化していきました。
また、大戦中の1917年以来の金輸出禁止、金本位制停止の状態が維持されていたため、円為替相場は動揺と下落の傾向が続いていました。アメリカやイギリスでは大戦後に金輸出を解禁し、国際金本位制を復活させて自由貿易体制を整えていたのに対し、日本は中国への資本輸出が必要と考えて解禁を控え、その後の経済の不安定要素もあって、解禁の時機を失っていたのです。
金融恐慌後に海外投資を求める声が大きくなると、英米の動きを受けて、浜口雄幸(おさち)内閣の井上準之助大蔵大臣は金輸出を解禁し、国際金本位制に復帰しました。1930年1月のことです。金の輸出入を自由化することで、円為替相場を安定させようとしたのです。
ただ、このとき実勢の円相場が100円=46.5ドル前後だったのに対して、旧平価の100円=49.85ドルで解禁したため、日本の金貨・金地金などが大量に流出し、さらなるデフレ、不況へと落ち込む結果となります。さらに悪いことに、前年10月には米ニューヨークで世界恐慌が起きていました。日本は二重の打撃を受けて昭和恐慌へと突入。この状況は高橋是清大蔵大臣による金輸出再禁止まで続くことになります。
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