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「一流の男」が見せたスーツへのこだわり――それは決して高級な服を着ることでもなければ、センスの良さを見せびらかすことでもない。誰にでもできる「ちょっとしたこと」に気をつけるだけで「大人の服装」ができるのだ。
作家・野地秩嘉がある大物ミュージシャンから教えられた「スーツへのこだわり方」――大人の男への第一歩として、学んでみてはいかがだろうか。
一流のミュージシャンが服装で教えてくれたこと
誰もが知っている海外の、あの大物ミュージシャンに2度、会ったことがある。
一度目は1989年だった。アポイントを取って、ひとりでロンドンまで出かけていってインタビューをした。
2度目は昨年の来日コンサートの時だ。東京ドームコンサートの開演前のわずかな時間に楽屋で会って、握手して、そして「1989年、あなたにインタビューしました」とひとこと伝えた。
いずれの時もわたしは彼本人と70センチくらいの至近距離で話をしている。本人をまじまじと見つめながら話をした。むろん、話の内容にも感心したけれど、それよりも何よりも、たたずまいや服装が大人の男と感じた。
「ああ、こうすれば立派な大人になれるんだな」と妙に納得した覚えがある。
いまもわたしは彼の服装、話し方、人を見送る時の気遣いなどを、時々思い出して、もっともっと立派な大人になろうと努めている。
最初にインタビューした時のことだ。わたしはロンドンにある彼が所有する趣味のいい低層ビルの前に立っていた。約束の時間に遅れてはいけないと思ったから、30分以上も早く現場に到着していたのである。すると、1台のオートバイが目の前に停車した。乗っていた男がバイクから下りて、ヘルメットを脱ぐ。
「あらら、彼だ」とわたしは焦ったけれど、チャンスを逃がしてはいけないと思ったから、近寄って行って、「こんにちは」と気軽にあいさつをした。
「やあ」と彼もまた自然体で応えてくれ、そのままビルの扉を開けて、彼のオフィスへ。インタビューはすぐに始まった。1時間近くもさまざまなことを聞くことができた。それほどの長い時間を彼がくれたのは破格と言っていい。
さて、わたしが鮮烈に記憶しているのはその時の彼の格好である。
バイクから下りた時は古い革ジャンと膝の出たコーデュロイのパンツを履いていて、不思議なことにベルトが長すぎて、10センチくらいも垂れ下がっていたのである。
もし、これが彼でなければ「だらしのないジジイだな」と思ったであろう。
しかし、彼に対して、わたしはそんなことはつゆほども思わなかった。
「なるほど」と納得したのである。
世の中の人間はその人物の顔と名前をよく知っている。才能のある人間であることも、むろん知らないはずがない。そして、金持ちであることは周知の事実だ。そのうえ、センスがよくて、ファンが多いことも万人が認めている。そういう人物ならば、たとえ、ベルトの端っこを10センチ垂らして歩いても、「だらしのない男だ」と思われることはない。
人間は中身があればブランドで飾る必要はない。そのことを彼は服装で教えてくれた。
↓↓後編に続く↓↓
革ジャンを脱ぐとそこには…
なおも覚えていることがある。
古いヨレヨレの革ジャンを着ていた彼がオフィスに入って、ソファに座った。わたしの目の前だ。ベルトの垂れさがっている姿を見たわたしはまったく緊張することなくインタビューに臨むことができた。
「ちょっと失礼」
そう断ってから、彼が革ジャンを脱いだ。すると、シワがない真っ白なシャツ姿に変わったのである。
「買ってきたばかりじゃないか」と思うくらい、清潔感のあるシャツで、シワひとつ寄っていなかった。しかも、さりげなく…いい香りがする。バイクに乗ってきたのに、いったい、どうしているんだ……。しかも、白いシャツはブランド製品ではない。デザインもごく普通のものだ。そこでも、わたしは感心した。
「新品でなくとも、シワがなく、清潔感があればそれでいい」
そう確信した。
さらにもうひとつ。
話は昨年のコンサートのことになる。彼が着ていた衣装は白いシャツ、ブラックジーンズ、そして、黒に近い紺色のジャケット。ステージ衣装としては地味なものだ。しかし、近くで見ると、新品ではなかったが、まったくきれいなものだった。
しかし、彼の服装に対する根本的な考えは変わっていない。シャツはあくまで白く、ジャケットにはシワが寄っていない。わたしはデザインやどこの製品かということよりも、服装は清潔がいちばんという彼の考え方が大人のビジネスマンだと感じたのである。
↓↓前編から続く↓↓
ビジネスマンにとって大事なのは…
新入社員が入ってくる4月になるとビジネス誌、男性誌、新聞、テレビなどで、ビジネスマナーと服装に関しての特集がてんこ盛りになる。
服装に関しては「そこそこの予算で個性を演出しよう」とか「相手に失礼にならない服装を心がけよう」といった話がほとんどだ。
働くのは地味な服でいいけれど、しかし、どこかにセンスを感じさせる必要があるというのが大方の識者の意見のようだ。
わたしはそれが間違っているとは言わない。優等生の答えだとは思うが間違いではない。
しかし、わたしは考える。ビジネスマンが着ていくべき服装は地味とか派手といった色やデザインが大事ではない。まして価格ではないし、ブランドなんてどこでもいい。センスや着こなしも考えたい人だけが頭を使えばいい。
大切にするのは清潔感だ。さりげなくいい香りがして、シワがないものを着る。それに尽きる。たとえ8年前に買ったスーツでもサイズがあっていて、清潔ならば堂々と着ていく。そうして、誰に会っても、にっこり笑う。歯を磨いて、健康な身体で客と話をする。清潔とはそういうことだ。身も心も全部きれいにしておく。
いいスーツを買ったり、着こなしを考えるのはそれから後のことで、一人前に仕事ができるようになってからでいい。
わたしが会った大物ミュージシャンを筆頭に、仕事ができる男はみんなそうして、清潔感を大事にしてきた。
彼はあるインタビューのなかで、こんなことを語っている。
「自分のなかの最高の、さらにその上を僕は目指す」
ビジネスマンはまず仕事で最高を目指すことだ。そのためには服選びに時間をかけるよりも、スーツ、靴、歯、髪型などの外見はすべて清潔にしておく。最高の清潔感のそのまた上の清潔感を目指して、毎日、意識して過ごしたいものだ。おそらく、そうした姿勢がビジネスマンにとって、出世を決めるポイントにもなるのだろう。他人からの印象を気にしないで、出世することなどありえないのだから。
野地秩嘉
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書に『キャンティ物語』『ビートルズを呼んだ男』『サービスの達人たち』『企画書は1行』『プロフェッショナルサービスマン』ほか、近著に『イベリコ豚を買いに』がある。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。