北朝鮮・金一族が元山で描く仰天の生き残り策 「観光」と「兵器」で生き残ろうとしている
正恩氏の出生地は明らかになっていないが、幼少期を元山の別荘で過ごしたこともあり、当地の生まれだと考える地元の人も多い。
別荘での金一族の暮らしぶりを物語るエピソードがある。専属料理人を務めていた藤本健二氏の2010年の回顧録によると、ある日、将来の指導者はこんなことを言ったという。
「フジモト、僕たちは毎日乗馬して、ローラーブレードやバスケットボールで遊び、夏にはジェットスキーやプールで遊ぶ。でも普通の人たちは何をして暮らしているんだろう」と、少年時代の正恩氏は尋ねた。藤本氏は現在平壌で寿司屋を経営しており、連絡がつかなかった。
ソ連と中国を後ろ盾に、金正日体制下の北朝鮮では長年、国民が必要とするものはすべて国が供給していた。
生き延びるために
当時の政治モデルは「先軍政治」と呼ばれ、朝鮮人民軍がすべての資源配分において優先され、国の経済問題を解決する無謬(むびゅう)の提供者とされていた。「100万人軍」が、カラシニコフ銃をショベルに持ち替え、道やダム、住宅の建設に取り組むとされた。
ソ連崩壊後の1990年代には、当時人口約2100万人だった北朝鮮全土で、正日氏が後に「苦難の行軍」と呼ぶことになる飢饉(ききん)が起きた。国家はもはや食料や仕事を供給できず、20万人から300万人が死亡したといわれる。
生き延びるために、一般市民も軍事パレードの先を読み、私設市場で残飯を得るために必死になって、役人に賄賂を贈って違法行為を見逃してもらわざるを得なかった。軍人も含めたほとんどの国民にとって、それは飢えるか闇取引をするかの選択だった。
正恩氏は権力についたとき、「これ以上、ベルトをきつく締めなくても国民が生活していけるようにする」時が来た、と語っていた。
同氏は2013年に政策を変更し、「並進路線」を提唱して祖父の時代への回帰路線を明確にした。それは、核抑止と経済を同時並行で前進させることを意味した。