「今うまくいっていても 明日失敗すれば、不成功」 | 愚直に続けたから 成功した、 ワケじゃない

「今うまくいっていても<br /> 明日失敗すれば、不成功」

「今うまくいっていても
 明日失敗すれば、不成功」

筒井宣政
東海メディカルプロダクツ会長

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 新たな事業領域に挑戦する起業家の努力と功績を称えるEYアントレプレナー・オブ・ザ・イヤー。アメリカで生まれたこの賞は、2001年より日本大会がスタートし、これまで多くの日本人起業家を世界大会に送り出してきた。
 そして15年11月24日、新しい日本代表が選出された。受賞者は、開発困難と言われていた「IABP(大動脈内バルーンポンピング)バルーンカテーテル」の国産化を成功させた、東海メディカルプロダクツ会長の筒井宣政氏。現在までに国内外で10万本以上が使用され、数多くの患者を救ってきた。モナコで開かれるEYアントレプレナー・オブ・ザ・イヤー世界大会への意気込み、そして、自身の成功の要因について聞いた。


モナコでの世界大会でも
いつもどおりの自然体で

――2015年EYアントレプレナー・オブ・ザ・イヤーの日本代表に決定されました。今のお気持ちをお聞かせください。

筒井 正直、ホッとしています。皆様からアドバイスをいただき、日本代表に選出されるまでは緊張の連続でしたから。会社としても、自分としても、そもそも「俺が、俺が」というタイプではありません。むしろ仕事では、医療関係者や公的機関と共同研究しながら開発をするので、いつも謙虚であることを心掛けてきました。

自分の製品が使用され、手術が成功したり、子供を救えたりしたときも本当は「やった!」と大きな声を出したいんですが、そこは病院ですから、なるべく小さく目立たないように、心の中でガッツポーズをするようにしてきました(笑)。

 ――2016年6月、モナコでの世界大会に出場されることになります。海外の経営者との交流も含め、どんな姿勢で臨もうとお考えですか。

筒井 今までと一緒でいいと思っています。かつてシンガポールで国際会議の議長(01年の「アジアヨーロッパビジネスフォーラム」における「中小企業分科会」)をやった経験もあり、英語もなんとかこなすことができますし、構えず、いつもの自分を出そうと考えています。できれば、名古屋弁の英語を標準語に直しておきたいですが(笑)。

これまでも多くの海外の経営者に会ってきましたが、海外の経営者のほうが合理的で決断が早いですね。日本は体裁や成り行き、周囲のことを考えての決断となりますが、海外は儲かるか儲からないか、すごく単純に物事が決まっていきます。

ただ日本の場合は儲かっても、それが良いか悪いかを考慮するところがあります。商社なら、それがいかに良い仕事なのか。製造ならどのように良いモノをつくるのか。そうしたことをまず考えます。そこから組織づくりや単価を想定し、モノをつくって、最終的に利益が出るかどうかを考える。

ところが海外の場合は、全部とは言いませんが、利益追求がいちばんの目的です。利益追求のためにどうすべきか。そして最後に製造、検査などの設備について考える。利益がいちばんで、製品は最後。極端に言えば、粗悪品をつくっても、利益が出ればいい。

その意味で、日本の場合は、これもまた全部とは言いませんが、良いものをつくって利益は後からでいいという考え方を持っていると思います。今、世界が日本の文化に改めて注目していますが、私も自然体の自分という姿勢で世界大会に参加しようと考えています。


娘の心臓疾患がきっかけで起業
絶対の自信がある製品しか出せない

――ご自身の経営姿勢とは、どのようなものなのでしょうか。

筒井 もともと私は日本の中でも派手に仕事をしてきたというよりは、とにかく良いものをつくり患者さんを助けることによって、医師や医療機関の信用や信頼を得て、その信用と信頼をもとに、また仕事をいただいて、利益を出すことで会社を成り立たせてきました。

医療分野でも儲からないことはやらない会社もありますが、それで本当に医療に携わる資格があるのかどうか。医療では効率的に儲けられない分野にも患者さんはいらっしゃいます。私は儲からない分野でも採算を合わせるように努力し、耐えうる経営システムをつくってきたつもりです。

――しかし、実際にそうできる経営者はなかなかいません。

筒井 会社の生い立ちがそうさせてくれたのかもしれません。たとえば私が、資本金1億円で何かをつくり始め、理想のものをつくるのに倍の資金の2億円かかることがわかったとき、「これ以上は無理だ」と資金の範囲内でつくれるものに妥協すれば、結果的に良いものはつくれなかったかもしれません。

しかし、私は心臓疾患を抱えた娘を助けるためにこの仕事を始めたので、そうはいきません。「家を売ってでも、とことんやってみよう」という気持ちで、製品の安全性や機能の向上を追求してきました。私たちがつくる製品は人の命を左右するものですから、絶対の自信がある製品しか売ることができません。そうした覚悟があったからこそ、苦しくても乗り越えられたのだと思います。


柔道日本一で鍛えた精神力
ナイジェリアでは体当たり営業

――大学卒業後、お父様の会社を引き継いだ直後にも多額の借金が判明し、その借金を返済するために新しいビジネスに取り組んでこられました。なぜピンチをチャンスに変えることができたのでしょうか。

筒井 一つは柔道をやってきたからでしょう。高校2年のときにインターハイ団体戦で全国優勝しました。決していちばんの選手ではなかったんですが、優勝するまで、非常に厳しい練習をして精神力も鍛えられました。師範はとても厳しく、「おまえが悪い」と怒られても、決して言い訳はしません。そうした精神力が私の基本にあると思います。

父の会社を継いだときも、私は長男ですから、どんなつらいことがあっても乗り越えなければならないという責任感がありました。親や一家の始末は、後を継ぐ長男がしなければならない。当時はそういう風潮が色濃く残ってましたからね。

父が連帯保証人になって抱えた借金は当時、会社の年商の2倍。今なら何十億円という金額です。厳しい取り立てもありましたね。

――そんなピンチのときに、新しいビジネスに乗り出すわけですね。

筒井 自社の樹脂加工技術を生かし、アフリカの女性向けに髪を結うビニールひもを開発しました。それも大商社の知人に「絶対に儲かるよ」と言われたからです。若かった私は何よりも「儲かる」という言葉に敏感に反応しました。淡々と借金を返していたら、返済に72年もかかってしまいますが、儲かれば一気に借金を返せるかもしれない。知人の話を聞いているうちに、「こうすれば売れるだろうな」という感触も得ていました。

早速、試作品をつくって知人に持っていったんですが、アドバイスはくれてもビジネスは別でした。潰れかけている会社を大商社は相手にしてくれません。方々に手を尽くしましたが、「筒井さんが行くんだったら、応援はするし紹介もする」と言ってもらうのがやっと。私は、つくることはできても売ることはできません。半ば、あきらめかけていました。

しかし、誰もアフリカに行かなければ、借金返済は72年。それを待たずに会社は潰れるかもしれない。私が行けば、半分の36年になる可能性だってある。そこで自分で行くべきだと決断したんです。ただ問題は言葉でした。おカネも時間もなく英会話学校に通うこともできない。そこで、地元ホテルの喫茶ラウンジに出向き、外国人を見つけては話しかけ、実地で英語を学ぶことにしました。

結果、半年も経たずに英語を使えるようになりました。長男として会社を背負い、借金を返すために必死だったからです。

――その後、単身ナイジェリアに乗り込んだのですね。

筒井 最初の1週間はおカネを使うだけで、現地の貿易商も相手にしてくれない。ただ、その貿易商のおばあちゃんが亡くなって、葬儀に参列することになったんです。葬儀では現地の衣装を着て、踊って、食べて、飲んで2週間目を遊んで過ごしました。

でも、それが功を奏しました。仲間として認めてくれたのでしょう。滞在3週間目にして注文が取れたんです。

実は、それまでは風土病が怖くて、現地の人が出す料理や飲み物は決して口にしなかったんです。でも、現地は暑くてのども渇く。思い切って、一緒に同じ料理を食べ、飲んで過ごしているうちに仲間にしてくれたんです。

結果、そのビニールの髪結いひもは西アフリカの7~8カ国で大流行しました。その売り上げをもとに、7年後の1974年に借金を完済することができました。


「カネの亡者」から医療の道へ
国産初のカテーテル開発に成功

――その後、手術不可能の心臓疾患を抱えた娘さんのために人工心臓の研究を始めます。

筒井 借金を残り1年で完済できるメドがたったころから、娘のために手術代を貯め始め、当時のおカネで2500万円になりました。今なら2億円ほどの価値になると思います。このおカネをもとに手術してもらおうと臨んだのですが、国内でも海外でも結局手術は無理。

そんなとき家内から「このおカネ、娘のために使えなかったけど、同じような子供を助けるためにも心臓病を研究している施設に寄付したらどう?」と言われました。

でも、私はすぐに賛成できませんでした。なぜなら、それまでアフリカのビジネスで儲けて、必死に借金を返済して、まるでカネの亡者のようにやってきたのに、急に寄付と言われても、そんな気にはなれません。

当初は生返事しかしませんでしたが、よく考えてみたら、借金を完済すれば会社と個人の担保も抜ける。家も会社も仕事もある。順調なときに、ただ大金を持っていても仕方ない。家内の言うとおりにしようと、病院に寄付しに行きました。

ですが、実際に病院に行ってみると先生から「共同研究しませんか」と思いもよらないことを言われました。

――寄付ではなく共同研究となると、継続的に莫大なコストがかかってきます。

筒井 私は経済学部出身で医学には門外漢でしたが、78年から研究を開始し、この研究なら国から研究助成金が出ると言われ、81年に東海メディカルプロダクツを設立しました。86年には動物実験ができるような人工心臓をつくりましたが、それまでに8億円の研究費を使っていました。ただ、実際に使えるようになるまでには臨床試験などで1000億円が必要になることがわかり、途方に暮れてしまいました。

そのころ、人工心臓開発の過程でたくさんの論文を読んで、ヒントを探りながら、わからないところは医師の先生方に恥を承知で聞いて回っていました。そうして読んでいた論文の中にIABP(大動脈内バルーンポンピング)バルーンカテーテルの話が出ていたんです。そこで、人工心臓からIABPバルーンカテーテルに切り換え、研究を始めました。

当時、日本の一流企業と一流大学が国から資金を得て、3年の歳月をかけてIABPバルーンカテーテルの研究開発をしていたのですが、うまくいっていなかった。だから、私は医学界からは冷たい目で見られていました。素人にできるわけがないと。

――新しい挑戦には資金がかかります。経営的なリスクも高まります。

筒井 もちろんリスクはありましたよ。ですから、ベンチャー支援団体に債務保証を受けたり、公的機関からの融資も受けたりしました。いろんなところで、資金を調達しました。親会社であった東海高分子化学の資産もかなり食い潰しました。

ただ、私には自信がありました。当時の技術では開発不可能と言われていましたが、私には長年培ってきた樹脂加工の経験と人工心臓を開発する過程で得た医学知識をもとにした、誰にも明かしていない技術を持っていましたから。実際、そこから約2年後の89年に国産初のIABPバルーンカテーテルを完成させることができました。

筒井宣政(つつい のぶまさ)東海メディカルプロダクツ会長 1941年名古屋生まれ。東海高校2年のときに柔道でインターハイ団体優勝。64年関西学院大学経済学部卒業後、父の会社である樹脂加工メーカー、東海高分子化学に後継者として入社。手術不可能の心臓疾患を抱えた娘のために、人工心臓の研究に携わり、81年東海メディカルプロダクツを設立。その後、人工心臓の開発は断念し、高性能バルーンカテーテルの開発に転換、89年に「IABP(大動脈内バルーンポンピング)バルーンカテーテル」を完成させた。00年科学技術庁長官賞受賞、02年黄綬褒章受章、11年旭日双光章受章、13年より会長。

海外市場に出ることで
多くの人を助けられる

――今振り返ると、成功につながったきっかけはどこにあったとお考えですか。

筒井 まず、私は今も自分が本当に成功したとは思っていません。確かに今はうまくいっていますが、明日失敗すれば、不成功になる。経営なんて一寸先は闇です。

ただ、資金に妥協せず良いものをつくろうとしたことと、娘のような病気の人を助けるために、人のやらないことをやり続けた自負はあります。

娘は23歳で亡くなりましたが、私が人工心臓からカテーテルに研究内容を切り替えても、いつも私たちを応援してくれました。娘のことを考えると決して手を抜けません。それが、今まで仕事に注力し続けることができた、いちばんの理由かもしれません。

それと、具体的なことを言えば、医師や医療機関の信頼を得られたことが最も大きいと思います。なぜなら、いくら良いものをつくっても、医師が良いと思わないかぎりは、使ってもらえません。医師が良いと思ってくれるということは、学会で評価されることです。そこから全国的に拡がっていきました。

――成功の一方で、ずっと愚直にやり続けている習慣はありますか。

筒井 私は何でもやりかけたら、ずっとやり続ける性分です。何でも浮気せずに、一度手をつけたら、ずっとやり続けています。仕事ではかなりの間、研究のために論文を読み続けてきたこともあって、若くして白内障になりました。両目を手術しています。細かい論文の文字は、非常に疲れるんです。

また昔は経営のことばかり考えて、あまり眠れませんでした。だから、枕元に必ずメモ用紙とペンを置いて、夜中に思いついたことを書いていました。そうしないと絶対忘れますから。大事な瞬間的なヒラメキは残さなければいけません。経営や技術、おカネを借りることも何でも考え続けているからヒラメキが生まれるのです。

――今後の目標は何でしょうか。

筒井 医療の世界では、一つの製品を開発しても、大人から子供まで、さらに言えば、数少ない希少な症例を抱えた方までさまざまな患者さんがいらっしゃいます。

たとえば、小児用のバルーンカテーテルを開発しても、国内では年に20~30例しかないものもあります。その数では経営的には採算をとることが非常に難しい。だからこそ、海外に輸出したい。そうすれば、市場は拡がります。

ただ誤解してほしくないのは、これは採算の問題よりも、もっと多くの人を救いたいからです。すでにモンゴルでも、小児用PEDバルーンカテーテルを使って、一人の子供さんの命を助けました。こうした事例をきっかけとして、世界の門戸を開いていきたいと思っています。

(撮影:軍記ひろし、今祥雄) 


 

“世界一”を決める起業家表彰制度
EYアントレプレナー・オブ・ザ・イヤーとは?
 EYアントレプレナー・オブ・ザ・イヤーは、1986年にEY(Ernst&Young=アーンスト・アンド・ヤング)により米国で創設され、新たな事業領域に挑戦する起業家の努力と功績を称えてきた。過去にはアマゾンのジェフ・ベゾスやグーグルのサーゲイ・ブリン、ラリー・ペイジらもエントリーしている。2001年からはモナコ公国モンテカルロで世界大会が開催されるようになり、各国の審査を勝ち抜いた起業家たちが国の代表として集結。“世界一の起業家”を目指して争うこのイベントは、英BBCや米CNNなど、海外主要メディアで取り上げられるほど注目度が高い。