ボランティアができない人に 「築地銀だこ」はできない | 愚直に続けたから 成功した、 ワケじゃない

ボランティアができない人に<br /> 「築地銀だこ」はできない

ボランティアができない人に
「築地銀だこ」はできない

佐瀬守男
ホットランド
代表取締役社長

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 新たな事業領域に挑戦する起業家の努力と功績を称えるEYアントレプレナー・オブ・ザ・イヤー。アメリカで生まれたこの賞は、2001年より日本大会がスタートし、これまで多くの日本人起業家を世界大会に送り出してきた。
 2014年に日本代表に選ばれたのが、「築地銀だこ」を展開するホットランド社長の佐瀬守男氏だ。今年9月にマザーズから東証一部に昇格したばかりだが、すでに夢は世界へと広がっている。佐瀬氏が起業家として成功した要因とは何か。そして、EYアントレプレナー・オブ・ザ・イヤーは佐瀬氏にとって、どんな意味があったのか。ブレない経営を続ける佐瀬氏に、「起業家」から「本当の経営者」になっていく秘訣を聞いた。


考えれば考えるほど
たこ焼きはいい商品

――外食産業は数多くありますが、佐瀬さんがたこ焼きで成功したきっかけ、分岐点とは何でしょうか。

佐瀬 マクドナルドに憧れて「和のファストフード」を作りたいと思ったことが、この世界に入るきっかけでした。約40万円の資本を元手に、焼きそばとおむすびの店を始めたんですが、なかなか売れません。

そのため、お客様のニーズに合わせるために、お好み焼き、たい焼き、カレー、ラーメンと商品のラインナップを増やしていくと、今度は何をやっている店かわからなくなってしまった。「何か違うんじゃないか」。自分でもそう思うようになり、ならば一個に絞ろうと考えました。それが、たこ焼きでした。

一つに絞れば、相当おいしくなければ、お客様はリピーターになってくれない。そこで研究を続けた結果、今に通じるレシピができて、お店を出した瞬間に「このたこ焼きに懸けよう」という決意が生まれました。

その頃は、アイスキャンディなど違う事業もあったんですが、全部やめて「銀だこ」に集中しました。この判断が成功につながったのかもしれません。

 ――ではなぜ、たこ焼きに集中するという決断ができたのでしょうか。

佐瀬 まず、自分で作ったたこ焼きがすごくおいしかった(笑)。「これは絶対にお客様にオススメできる」と言える商品ができました。それに、考えれば考えるほど、たこ焼きはいい商品だということに気がついたんです。

たとえば、昼、夜、時間帯に関係なく売れます。おやつにもなれば、お酒のおつまみにもなる。しかも客層が広く、テイクアウトもできる。特にテイクアウトは店頭にいらっしゃらないお客様が、別の場所で味を体験することで、潜在的なお客様になってくれます。また、たこ焼きだけに集中することによって、焼き続けるパフォーマンスや、焼きたてを効率よく提供することができたんです。

これが私の求めていた「和のファストフード」ではないか。そう考えて決断しました。

――たこ焼きの本場と言えば、関西ですが、佐瀬さんの本拠地は関東の群馬県。たこ焼きに絞ることは冒険だったのではありませんか。

佐瀬 そうですね。1980年代当時の関東では、たこ焼きは屋台しかなく、お祭りでしかお目にかかれません。専門店もありませんので、店舗を出したらどうなるのか、従業員を見つけられないのではないか。そんな不安もありました。関東でたこ焼きをやるというのは、不透明な部分が多かったですね。

――さまざまな障壁があったと思いますが、それを乗り越えるために、どんな工夫をされたのでしょうか。

佐瀬 まずはブランドを作ることを意識しました。「築地銀だこ」というたこ焼き専門店として、小さくとも格好いい店を作りました。職人が丁寧に仕事をして、パフォーマンスを売りにする。働いている人が格好良く映ることにこだわりました。

私たちは商人ですから、売れることがいちばんのプライドです。売れる店しか出したくない。お客様が行列を作ってくれて、私たちの仕事を見てくれている。ほかのお店よりもお客様に支持されている。それがプライドにつながり、ブランドになっていきました。


出店を焦るあまりに
どんどん店のレベルが落ちた

――ブランドを構築するために、どんなことに注力したのでしょうか。

佐瀬 人の教育です。3店舗目を作った時に、手掛けたのが研修センターでした。実演販売で格好悪いのは、焼きが下手だったり、仕事が汚かったり、笑顔がないことです。そうしたことを徹底的に改善することで、ブランド力がついていきました。

誤解を恐れずに言えば、かつて関東では、たこ焼きの仕事と言えば、ガサツな人の集まりに見えるところがありました。それではブランドにならないし、信用される会社にもならない。

そのため、職人でも言葉遣いから振る舞いまで社会人の常識を守るよう徹底し、店舗に出勤する時でも必ずスーツ着用、髪型にも制限を設け、ヒゲも禁止。そういう地道な努力を続けました。

――その後は、順調に店舗を増やせたのでしょうか。企業の拡大局面では、踊り場を迎えることがあります。

佐瀬 100店舗の壁があって、そこからお店を出しても、閉店が続くという状況がありました。出店を焦り、どんどん店のレベルが落ちていきました。人材のレベルが追いついていなかったんです。

そんな時は、全体の仕組みを変えなければなりません。30店舗までなら、社長である私一人でも管理できます。しかし、それ以上になると難しい。

さらに材料の問題もありました。たこ焼きの材料は非常にニッチなものです。たこ、紅ショウガ、揚げ玉、青のりなど、それほど大量に出回っているものではありません。出店するほどスケールデメリットが生まれるんです。

商売ですから、材料がなくならないようにしなければなりません。たこが値上がりしたからといって、値上がり分を商品価格に転嫁するわけにはいきません。そこで、業者と直接取引するなど工程の川上へ上っていくようになり、焼く機械も自分たちで納得のいくものを独自開発していきました。

店に行くたびに味が変わっていては、どれが本物の「銀だこ」かわからない。困ったことに、たこ焼きはハンバーガーと違って粉から作っていく商品なので、味を高いレベルで統一するのが難しい。だからこそ、変わらないためには、職人の技術と材料と機械が大事な要素になってくるんです。


たこ焼き屋なんて
世の中になくてもいい商売

――それだけ成功すると、当然、マネする業者もあったのではないでしょうか。

佐瀬 ありましたね。中野に出店した時は、街中がたこ焼き屋だらけになりました。でも、結局、残ったのは私たちでした。

では、なぜ残ることができたのか。それもやはり人なんです。たこ焼き屋の運営で大事なのは、人としてのあり方、人間性だと私は思っています。

実は、私たちのFCビジネスは元社員が担っています。社員から夢を持って独立したいというメンバーに既存店を差し出すのが、私たちのFCチェーンの仕組みなんです。お金や土地を持っている人が、儲けるためにFCをするわけではないんです。

私は、たこ焼きは“人ビジネス”と考えています。一緒に理念を共有し、喜べる人でなければ、店はできません。そんなメンバーたちが現場に立っているので、店を増やしても理念は継承され続けていきます。実際に、18年間このビジネスをやっていますが、FC関連で訴訟などもありません。

いちばん大切な理念は、「築地銀だこ」というブランドを守ることであり、ブランドの価値を向上させていくことなんです。

――ブランドを守ると一口に言っても、社員一人ひとりに浸透させていくのはなかなか困難な仕事です。どうやってブランドや理念を心の底から理解させるのでしょうか。

佐瀬 いくつかあると思いますが、一つは、ボランティアでしょうか。北海道から沖縄まで、年間30カ所の福祉関係の施設を回り始めて、もう8年以上になります。FCのオーナーたちが手弁当でやっています。

恵まれない子供たちのために、遊び場所と思い出を作っています。最初はなかなか受け入れてもらえませんでしたが、今では多くのお問い合わせをいただいています。

突き詰めれば、たこ焼き屋なんて世の中になくてもいい商売です。たこ焼きを食べれば笑顔になる、仲間とともに食べればもっと笑顔になると信じていますが、やっぱり私たちは地域の人たちに生かされているんです。「たこ焼きを通じて笑顔を作る」と理念で語っている以上、店舗に来られない人たちや困っている人たちに対しても、笑顔を作る責任がある。それが私たちの理念の原点です。

外食産業は、人の笑顔が自分の喜びにならないと成り立たないビジネスですから、ボランティアで少しも喜びを感じられない人に、たこ焼き屋はできないでしょう。


25歳で商売を始めてから今まで
心の底から笑ったのは1日だけ

――今回のタイトルは「愚直に続けたから成功した、ワケじゃない」というものですが、一方で佐瀬さんがこれまで愚直にやり続けているものはありますか。

佐瀬 とにかく考えたことを書くことです。そして、書いたことを人に伝える。そうしなければ、忘れてしまうんです。次から次へと考えているので。

いちばん集中して考えられるのは、クルマの中です。移動中に手帳に書いたり、人に電話で伝えたりします。でも、時には考えに行き詰まることもあります。そんな時は、海外に出張に行きます。刺激もあって、新しい概念も出てくるので、アイデアも良い方向に向かうんですよ。

実は、私は臆病者なんです。いつ会社がつぶれるかわからないといつも思っています。現状につねに満足できない。怖くて眠れないこともよくあります。

25歳で商売を始めてからずっと頭の中には仕事しかないんです。本当に腹を抱えて笑った日というのは、東証マザーズに上場した日だけ。1日だけ心の底から素になって泣けたし、本当にうれしかった。今回、東証一部に上場できたわけですが、責任感のほうが強くなって、上場した日も心の底では笑っていません。


創業以来、赤字なし
同じ失敗は繰り返さない

――笑わないということですが、落ち込んだりすることはありますか。

佐瀬 めちゃめちゃありますよ(笑)。会合で若い経営者たちに会うと、彼らは天才ばっかりなんです。英語も堪能だし、ITの知識や技術もしっかりしている。発想もすごい。私にないものをすべて持っている。そうしたメンバーが熱く語るのを聞くと、落ち込むんです。「もう俺の時代ではない」と。引退しようかと本気で思います。

でも、またしばらくして面白いアイデアが浮かびワクワクすると、その瞬間に「俺は天才だ」と復活するわけです(笑)。

――これまででいちばん大きな失敗とは何でしょうか。そこからどんな教訓を得ましたか。

佐瀬 失敗したことが今、全部生きています。私が唯一胸を張って言えるのは、実は創業以来、赤字を出したことがないことです。仕入れ先や従業員にお金で迷惑をかけたことはありません。自分が給料をもらわなかったことはありますが(笑)。教訓は、同じ失敗を繰り返さないこと。

かつて売り上げの勢いに任せて、アイスキャンディの工場を建てて失敗し、一億円の借金を作りましたが、最近もまた同じようなことに突き当たりました。好調な売れ行きの「コールド・ストーン」のアイスキャンディ工場を作ろうとしたんです。何しろ、私は工場を作るのが大好きですから(笑)。

そんな時、82歳の父親から「おまえ、また失敗するぞ」と諭されました。そこで冷静になって考えました。今は手間がかかっても、手作りだから売れているのかもしれないし、それを工場化すると、また失敗するかもしれない。それで結局やめることにしました。

佐瀬守男(させ もりお)ホットランド代表取締役社長 1962年群馬県桐生市生まれ。東京YMCA国際ホテル専門学校卒業。25歳で焼きそば店を開業後、たい焼き、今川焼、おむすび、アイスクリームなどさまざまな業態に手を広げるが失敗、1億円の借金まで背負う。苦労の末、97年にたこ焼きに特化した「築地銀だこ」をオープン、大ヒットさせ一気に全国展開する。近年はたこ焼きとお酒が楽しめる「築地銀だこハイボール酒場」など12業態を展開し、香港、シンガポールなどにも出店している。国内店舗数579店、海外54店(2015年9月現在)、年商270億円。2014年東証マザーズ上場、15年9月東証一部に昇格した。

世界の起業家たちとの出会いで
「世界一を目指す」ことが目標に

――EYアントレプレナー・オブ・ザ・イヤーには2回参加されていますが、きっかけは何ですか。

佐瀬 証券会社の推薦でした。日本大会に参加した時は楽しかったですね。自分の仕事の話をどうプレゼンするのか。著名な先生方もいましたし、短い時間の中で、どう自分の会社のことを伝えるのか。私にとっては非常に勉強になりました。


日本大会で大賞に選ばれた時は、まず「私なんかでいいのか」と正直思いました。もっとすごい経営者の方々がたくさんいらっしゃいましたし、大変なことを引き受けたと。

――モナコでの世界大会を通じて得たものを教えてください。

佐瀬 友人がたくさんできたことです。面白いのは、各国が国策的に代表を決めているようでした。その国が今、世界に向けて伝えたい会社、伝えたい事業が、代表の選出に反映されているんです。たとえば、私は、ヨルダンの代表と仲良くなりましたが、彼のビジネスはロジスティクスでした。ヨルダンは中東とアジアの中間に位置し、陸も海も空もアクセス面で、すべての基地になると主張していました。

私自身は当時、和食を世界に広げるという文脈から選ばれたと感じています。そう考えれば、ある意味では、外交と同じですね。

実は、最終日の前日、審査員の奥方から「佐瀬さんは明日から有名人になる」と言われたので、それを真に受けて自分が優勝すると思っていました。でも、優勝したシリア出身のフランス代表のスピーチを聞いたら、全然レベルが違った。私はそのスピーチで泣いてしまいましたから。スピーチを見るだけで世界観が変わりました。「世界の経営者はこんなにスケールがでかいのか」「世界はどれだけ広いのか」と思い知らされました。

――ご自身の世界観が変わるほどの影響を受けたのですね。

佐瀬 友人で2010年の日本代表になったジェイアイエヌ社長の田中仁さんも、世界大会に参加されてから、変わったと思います。それまでは日本国内でどうするのかを考えておられたようですが、参加後、考え方が本当に世界的になったように思えます。

私もそうです。ギラギラした世界の若い経営者が大会にはたくさん来ているわけです。「彼らが本気で日本やアジアでビジネスをやったら勝てないかもしれない」。そう思わされました。それでも、いつまでも弱気ではいられない。「世界一になる」、そんなギラギラ感を若い経営者が持つようになれば、日本はもっと発展していくと思います。

(撮影:今祥雄) 


 

“世界一”を決める起業家表彰制度
EYアントレプレナー・オブ・ザ・イヤーとは?
 EYアントレプレナー・オブ・ザ・イヤーは、1986年にEY(Ernst&Young=アーンスト・アンド・ヤング)により米国で創設され、新たな事業領域に挑戦する起業家の努力と功績を称えてきた。過去にはアマゾンのジェフ・ベゾスやグーグルのサーゲイ・ブリン、ラリー・ペイジらもエントリーしている。2001年からはモナコ公国モンテカルロで世界大会が開催されるようになり、各国の審査を勝ち抜いた起業家たちが国の代表として集結。“世界一の起業家”を目指して争うこのイベントは、英BBCや米CNNなど、海外主要メディアで取り上げられるほど注目度が高い。