大塚家具をめぐるお家騒動が連日、メディアを賑わせている。経営方針をめぐる主張の違いが、父・勝久会長と娘の久美子社長による争いの一端にある。お家騒動ばかりに目がとらわれがちだが、そもそも大塚家具とは、どんな企業でこれまでどんな道を歩んできたのか。その創業物語や流通業界にもたらした功績、そしてつまずきの背景などをここで冷静に見てみよう。
「品質が良ければお客はわかってくれる」
勝久会長は埼玉県春日部市に生まれた。父親は箪笥(たんす)職人だった。箪笥を販売する家業を手伝うなか、勝久氏は消費者の行動をつぶさに観察した。お客はただちに買ってくれるわけではない。複数の店を吟味したうえでやっと購買にいたる。何よりも商品の品質こそが大切で、品質がよければお客はわかってくれる――。この原体験こそが大塚家具の理念となり、大塚流販売手法の礎となった。
勝久氏は1969年に独立し、春日部駅の西口近くに店を構えた。「株式会社大塚家具センター」と名づけた。それが25歳のときだった。勝久氏は営業マンに自転車を与え、飛び込み営業を開始した。婚礼家具を求める家を探しては春日部の店舗に誘導し、朝6時から夜12時まで働くなど、努力を重ねていった。勝久会長の口から、この「努力」がキーワードとしてよく出るようになる。
そこから同社は成長を続けた。象徴的な出来事をピックアップしていこう。
1978年に東京進出を果たす。板橋の店舗は、ボーリング場の跡地を改装したものだった。勝久社長(当時)は雑誌のインタビューで「家賃はタダなんです」と語っている(『経済界』1978年10月号)。これはレトリックで、すなわち<それくらいの大きな敷地があれば、家賃をペイできるほどの利益が見込める>の意味だった。
実際、当時の物価でも月1500万円の家賃だったものの、大幅に上回る利益を実現した。百貨店で販売している高級家具が2~3割引で買えます、というものだった。当時、この販売スタイルは大当たりし、同社の業績は伸びた。とともに、この「莫大な敷地に家具を並べ、販売して利益を稼ぐスタイル」が定着していった。
1993年ごろには業績が悪化。これは既存店をまとめて閉店したのが理由だった。面白いことに、利益が出ていた店舗も閉店した。老朽化していたのも理由だったが、それよりも、より条件の良い広大な不動産を求めた資金確保のための、計画的な閉店だった。大塚家具は既存店を大型店に切り替えていくスタイルを続けた。
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