もし石橋湛山が首相を長く続けていたならば 日経新聞の名物記者が湛山を振り返る

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戦前の日本において、新聞・雑誌のジャーナリズムが置かれていた立場を、とりわけ、経済ジャーナリズムが置かれていた立場を考えるとき、湛山が「小日本主義」や「金解禁論争」などを通じて、東洋経済新報を舞台に展開した報道を改めて評価しなければならないと思う。戦中日本における、彼の首尾一貫したジャーナリストとしての言動を思い起こすとき、胸が熱くなることを禁じ得ない。

しかし、戦前のジャーナリストとしての湛山評価に比べると、戦後の保守政治家としての、活動と活躍に対する評価は、今一つあいまいで、不明瞭である。

湛山人気を横目に、吉田茂が危機感を覚えた

1946年5月22日、湛山は、第1次吉田茂内閣の下で大蔵大臣に就任する。翌1947年5月、GHQにより、公職追放を受け、大蔵大臣を辞する。国民の間で急速に盛り上がる石橋人気を横目に、吉田茂が危機感を覚え、GHQの追放指令に見て見ぬふりをしたともいわれる。

1956年の総裁公選における石橋湛山(72)、岸信介(60)、石井光次郎(67)

GHQによる追放後は、鳩山一郎を担ぎ上げることを、三木武吉とともに画策する。岸も同じ自由党員だった。そして1955年、後に「五十五年体制」と呼ばれることになる自由民主党一党支配の体制に参画する。

そして、鳩山とともに追放解除となり、第3次鳩山内閣で1955年11月、通産大臣に就任する。大蔵大臣に就任の予定だったが、官僚や自民党の政治家の一部に激しい反対があったといわれる。

翌年(1956年)12月に行われた第3回自由民主党大会で、決選投票の結果、2、3位連合で、初回投票第1位の岸信介を破り総裁に選任、同年12月、石橋湛山内閣が成立した。

好事魔多し。1957年1月、湛山は急性肺炎に倒れ、2月23日、総辞職し総理大臣を辞任する。在任期間はわずか65日であった。

2月4日、石橋内閣初の施政方針演説を代読したのは、岸信介内閣総理大臣臨時代理だった(石橋湛山施政方針演説より)。

「自由民主党および日本社会党の両党が、外交をはじめ、国政の大本について、常時率直に意見をかわす慣行を作り、おのおのの立場を明らかにしつつ、力を合わせるべきことについては相互に協力を惜しまず、世界の進運に伍していくようにしなければならないと思うのであります」

「国会に国民が寄せる信頼は、民主主義の基であります。これにいささかなりともゆるぎがあってはなりません」

岸臨時代理は、彼の思想信条と異質な、石橋湛山のリベラルな理想を読み上げた。そして間をおかず石橋内閣は総辞職し、2月25日に岸信介内閣が成立する。

石橋湛山と岸信介。政治信条も行動も違う2人の保守政治家が、はからずも総理の座を継承したことは、歴史の皮肉である。

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