もし石橋湛山が首相を長く続けていたならば 日経新聞の名物記者が湛山を振り返る
戦前の湛山は、日中戦争に踏み出す日本の短慮を批判し「小日本主義」を主張して、いたずらな経済的な拡張主義、軍備の増強主義を批判し続けた。
また、昭和恐慌前後の「金解禁論争」では、国際的な通貨変動の時代を予見したばかりか、「購買力平価論」を誰よりも早く、わがものとしていた。さらに、1936年のジョン・メイナード・ケインズの『一般理論』が出た直後には、英文でこれを読破して、「有効需要」の理論を、盟友の高橋亀吉ともども、自家薬籠中のものとしていた。
実践派エコノミスト、石橋湛山の知恵は、日本の戦後の経済政策に、もっと生かすべきだったのではないか、というのが、湛山同様、40年近く、経済記者として、マーケットを見つめ続けてきた、私の思いでもある。
岸は、安保改定後、日を置かず退任する。その後継に指名されたのが、反主流派だった大蔵省出身の池田勇人であり、彼が選択したのが「所得倍増」を掲げた高度成長路線だった。
「所得倍増政策」によって、日本の高度成長期を乗り切った池田勇人の経済政策を批判する向きは少ない。
しかし、少し引いて見るならば、戦後の自由民主党の政治を、大蔵官僚主導の官僚主義と一体の仕組みに編み上げたのが、池田であり、宏池会だった。まさに、自由民主党の一党支配と、大蔵省を頂点とした官僚支配をバブル崩壊まで引きずったのは、池田内閣が作り上げた自民党一党支配の体制だった。池田の最大の罪も、そこにある。
湛山の道は、明らかに、もう1つの道だった
そして、湛山は、大蔵省から忌み嫌われ続けていた。
岸の商工省「革新官僚」主義から、大蔵省主導の「官民一体の資本主義」への権力移転は、こうして強化され、成立した。それこそが、五十五年体制と呼ばれる、湛山も加わった戦後政治の転換の帰結でもあった。
それが、悪かったと断定する根拠を私は持たない。しかし、湛山の道は、明らかに、もう1つの道だったと思う。そして、湛山が、もし健康に政権を全うしていたら、もう1つの道が政策として選ばれたことは間違いない。
エコノミストにして自由主義者だった湛山の夢を、戦後の日本の成長期に、縦横無尽にキャンバスに描いてほしかった! そのように思うのは私だけではないだろう。
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