対談(その1):日本人の教養と、根深い西洋コンプレックス
対談(その2):教養をめぐる、経済界トップの勘違い
専門と人格は切り離せるのか
山折:教養の問題を語るときには、専門とのかかわりを考えることが不可欠です。世界的なレベルで考えると、専門については2つの道があると思います。
ひとつ目は、人間としての成熟がまずあって、その上に初めて知の世界が豊かに花開くという考え方です。単なる知だけでは、専門的な知識としても学としても十分ではない、人格と知の世界は切っても切れない関係にあるという認識です。人格主義的な知ともいえます。
もうひとつは、それまでの知の集積に対して、1ページでも1行でも新しいものを付け加えれば、それこそが専門的な知だという考え方です。自然科学的な知といえるかもしれません。その1行、1ページのためにしのぎを削る、あるいは命を削るというかたちで、専門知を追求するあり方です。
日本の伝統的な知のあり方は、どちらかというと、人格主義的な知。人格抜きの知識は単なる知識にすぎない、断片的な知にすぎない、あるいは血肉化されてない、したがってそれは、社会のためにならない、人を感動させない、といった価値観がついてくるわけです。
その根っこを訪ねていくと、伝統的な儒学者の生き方というものがまさにそうであって、それを何とか近代に継承していこうという動きがあります。そういう生き方を受け入れる専門分野と受け入れない専門分野がありますが、どちらかというと、西洋から入ってきた学問は、そういう生き方を排除して、いかに新しい知を付け加えるかを要求します。新しい発見がないものは、いくら当人であっても、専門家として十分ではないという評価です。
西洋近代の学問のあり方の究極は、やっぱり1ページ、1行何を付け加えるか、あるいは、付け加えてないかにあるのではないでしょうか。
鷲田:それは、現代科学、あるいは近代科学の話ですね。
山折:哲学の歴史の中ではそういう傾向は見えませんか。
鷲田:要するに、知識をただ持っているものとして考えるのではなくて、それをどう使うか、あるいはどう生かしていくか、という問題だと思います。つまり、知識の使用という問題です。
あの人はたまたま恵まれた知的才能を磨いて貧しい人や国のために使った、というふうに、その人の生き方まで包含しているのが、先生のおっしゃる人格主義的な知ですね。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら