山尾議員の「政治家生命」は果てしなく厳しい なぜ「即時離党」という道を選んだのか

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山尾氏が優秀な人材で、かつ大きな功績があったのは事実である。山尾氏は、ブログに書かれた「保育園落ちた。日本死ね!!!」を国会で取り上げ、待機児童問題に真正面から取り組んでいった。

2009年に初当選。その後、2011年に長男を出産した山尾氏は、「働くママ」として知られていた。現在の議員会館に移動した際には、保育園が併設されている衆議院第二議員会館を希望した。「いざという時に階段を使ってでも駆け付けられるように」と、入居の議員事務所は最低層の2階を希望。バリバリと仕事をこなす一方で、育児にも手を抜かない。そういうイメージが強かった。

1回生議員の頃は女性議員の嫉妬の対象に

1回生議員だった時代の山尾氏に関して、筆者にはこんなエピソードがある。ある媒体で女性議員の対談の企画があり、民主党からは山尾氏に出てもらうことになった。自民党からは佐藤ゆかり参議院議員(当時)。しかし対談の日時と場所も決まった後、佐藤事務所の秘書からこんなクレームが付いた。「山尾氏のホームページを見たのだが、彼女は何を主張しているのかわからない。うちの議員と対等に話せないと思うので、相手を変えてほしい」。

2016年10月、衆院予算委員会で自民党の改憲案を追及する山尾志桜里衆院議員(写真:日刊現代/アフロ)

筆者が「それでは参考までに希望する相手の議員の名前を教えてほしい」と言うと、佐藤氏の秘書からは山尾氏よりも年配で地味な女性議員数名の名前が挙げられた。“真意”のほどが確認できたため、佐藤氏を断り、山尾氏の相手には別の議員にお願いをした。要するに「自分よりも若い女性への嫉妬」だ。山尾氏は佐藤事務所に軽く見られていたのである。

イメージがガラリと変わったのは、2012年12月の衆院選に落選、逆風が変わらない中で2014年12月の衆院選でカムバックを果たしてからだ。

2016年2月に「日本死ね!」で知名度が上がった山尾氏は、同年3月には政調会長に就任。同年4月の北海道5区補選や今年7月の横浜市長選などで引っ張りだこだった。蓮舫体制になってからは国民運動局長に“格下げ”されたものの、その存在感は変わらなかった。それを支えていたのは、前述した元同僚の言う「上昇志向」だったのかもしれない。

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