大坂の陣、豊臣方「真の敗因」は何だったのか 「埋められた堀」より致命的だった弱点は?

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「大坂の陣」で、豊臣秀頼はなぜ敗れたのか。それを探っていくと、引き分けとなった「冬の陣」の時点で、すでに豊臣秀頼の勝利は難しかったことが見えてきます。

こうして大坂城の堀は失われた

【敗因1】そもそも豊臣家が孤立していた

大坂の陣では、豊臣秀頼の呼びかけに対し、これに呼応して10万もの牢人が集まりました。しかし、秀頼に味方した「大名」は皆無です。

そのころ、時代はすでに「徳川の世」。豊臣秀吉に仕えて天下統一を支えた大名たちも、関ヶ原の戦いのときから徳川方についたり、豊臣方として戦って敗れたりして、多くは亡くなっていました。

「いまさら豊臣家を支えよう」という大名はいなかったわけです。

【敗因2】大半が牢人で「優秀な指揮官」が不足していた

【敗因1】でも述べたように、大坂方の10万の将兵は「牢人」で、「現役の大名」はいませんでした。

そのため、真田幸村や長宗我部盛親といった一部の武将や元大名を除き、牢人たちを統率する「大軍の用兵」に長けた「優秀な指揮官」が圧倒的に不足していたのです。

【敗因3】安易に籠城してしまった

大坂城での籠城策も、大坂の陣の大きな敗因のひとつです。

「大坂冬の陣」では、本来なら十分な兵力と地の利を生かし、大坂への敵の侵入を阻止する戦いも展開できたはずでした。ここである程度、敵に損害を与えていれば、その後の形勢は変わっていた可能性もあります。

しかし、秀頼軍は「牢人」主体だったために思うような作戦行動がとれず、早々に大坂城の堅固な守りに頼った「籠城」に踏み切るしかありませんでした。

【敗因4】「有利な和睦」を提示できなかった

約1カ月におよぶ籠城のあいだ、「真田丸」での真田幸村の奮戦などがあったものの、戦いは膠着状態が続きます。兵糧、弾薬も減り、冬の厳しい寒さも近づいていたため、家康は秀頼に「和睦」を提案しました。

この時点で、秀頼が敵の包囲にある程度のダメージを与えていれば、家康から主導権を奪い、豊臣方に「有利な交渉」ができた可能性も十分あります。

しかし、秀頼は「目先の和平」を急ぎ、城の守りで最も重要な「堀を埋める」という不利な講和条件を受け入れてしまったため、「夏の陣」の悲劇を招くことになりました。

Q6. なぜ秀頼は「この程度の戦い方しかできなかった」のですか?

そこが今回のテーマにおける根本的な理由、つまり「本当の敗因」です。

次ページでは「本当の敗因」は?
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