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戦争を終わらせないのは「白黒をつけたい」世論と専門家だ――昭和日本とウクライナに共通する「失敗の本質」

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ウクライナの国旗
曖昧さを許さない社会こそが、戦争を始める(写真:oqtave/PIXTA)
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しかし西側の指導者や世論は(ロシアも同様だったかもしれないが)、そうした和平ではなく、勝ち負けの「白黒をはっきりつける」ことを望んだ。どの先進国も将来戦争になりうるとする不安の下で、専門家に依存しきった日本の民意もまた、ずるずると勝算の消えた抗戦にしがみつき、出口を見失った。

昭和の戦争では責任を負わない立場の参謀が、作戦を企画立案しては失敗したが、よその国の戦争では誰もが気軽に「参謀」を演じられる(注7)。その点でコロナ禍の「専門家」ともぴたりと重なる弊害は、ウクライナでも改善されず、より症状を悪化させたと評価すべきだろう。民間主導でメディアが自由に識者を選んだ場合ですら、そうだった。

もし将来、日本が戦争の直接の当事者となり、「官主導」で専門家が放送局に派遣されるようになったらどうなるか。ぼくたちはいまこそ、噛みしめておかなければならない。

加藤典洋が見抜いた「無条件降伏」の本質

2026年の2月に米国とイスラエルがイランを空爆するや、進行中のはずのウクライナ戦争の影は、日本のメディアから一挙に薄くなった。しかし、同戦争で問われた課題は、これからもその切迫さを増し続ける。

曖昧さを忌避し、完全なる勝利で白黒をつける欲求がエスカレートするとき、戦争はしばしば「無条件降伏」の要求を生む。だがその発想は、そもそもどこから来たのか。

後発の文藝評論家として、江藤淳を乗り越えることをめざした加藤典洋は、デビュー作の『アメリカの影』(1985年)に収めた長文の論考「戦後再見」で、この問いを追究した。見えてきた答えは、こうだ。

戦争終結時にはどうしても戦争勝利者としての「フリーハンド」を持っていることを至上目的とし、しかも一方的に敵を裁き敵からは裁かれない地歩の獲得を眼目のうちに含んだ政策が、実は、原子爆弾使用を彼らに可能にさせるための不可欠の条件として、彼ら連合国の指導者に必要とされたのではなかったか(注8)。

それまでの戦争と同様の通常の降伏では、「原爆投下はさすがに国際法違反だ」といった告発が、敗戦国(日本)の側からなされる恐れがある。それを封じたいという欲求が、終戦後は「一方的に敵を裁き敵からは裁かれない地歩」をも得る完全な勝利、すなわち無条件降伏という構想を、ルーズベルト(とチャーチル)に抱かせたということだ。

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