そうして千代は教師としての仕事にやりがいを感じながら、まったく別のことでも、注目を浴びていた。それは化粧だ。
あるとき、千代は風呂上がりに、棚の上で箱からおしろいの粉がこぼれているのを発見する。何気なくそれを顔にはたいてみたところ、もともと色黒だったこともあり、たちまち顔の様子が変わり、驚くほど綺麗になったという。
母が「紅をつけたらどうじゃろうかの」と言って紅をさしてくれると、千代はさらに美しくなった。以後、千代が化粧をして学校に行くようになると、生徒や同僚だけではなく、学校への道のりですれ違う人々からもじろじろと見られたようだ。
ドラマでも主人公の珠が、勤務先の学校に化粧をしてきたことで、教師たちの間で物議を醸す様子が描かれた。
だが、実際は、あんなものではなかったようだ。学校までの往復の間に何通もラブレターを袂に投げ込まれたかと思えば、子どもたちに体操を教えていると、運動場の柵の周りに人がたかって、千代を見に来たこともあったという。しまいには、こんな手紙を渡してきた男性までいた。
「この手紙を僕は、ナイフで指を切って、書いたのです。僕の真情をお察し下さい」
千代を見初めた男性は数多くいたようだが、自身は「決して結婚はしない」と決めていたという。自分の魅力はあくまでも化粧によるものだと考えていたからだ。
「いつかこの胡魔化しが見破られるかと思うと、その怖しさに、そんな所へ嫁に行く気など、夢にもないのであった」
子どもを使ってラブレターを渡した
だが、勤務先の小学校に佐伯正夫という新任教師がやってきたことで、千代の人生の風景が一変した。
佐伯は尋常2年生のうち優等生組のほうを担当したが、この学校で当時あった「優等生組を甲組、劣等生組を乙組」と呼ぶ習慣に、待ったをかけた。
「甲乙組と区別をつけて呼ぶことを止めましょう。いまの乙組には、それだけの能力は充分にある。そう思いませんか」
千代としても自分のクラスが認められたのは、大きな喜びだったに違いない。やがて千代は生徒の一人に「これをA組に持って行って、佐伯先生に渡しておいで」といって、こんな手紙を託している。
「今夜、お宅へ好いものを持ってお伺いします。それは好いものです」
生徒を伝書鳩のように扱うとは何とも大胆だが、走り出したら一直線。千代は佐伯と恋に落ち、そのことが原因で学校から立ち去ることになる。
【参考文献】
村上龍著『13歳のハローワーク』(幻冬舎)
『宇野千代全集』第12巻(中央公論社)
宇野千代著『生きて行く私』(角川文庫)
『新潮日本文学アルバム 宇野千代』(新潮社)


※ログイン後、コメント入力が可能です。