人が集まらない以上、再開発により新たな床を積み上げても、買い手や借り手は見込みにくい。駅前に再開発ビルを建てる経済的な根拠が、そもそも成り立たないのである。
再開発を動かすもうひとつの大きな力が防災だ。区画整理がなされないまま住宅が建ち並んだエリアは木造住宅密集地域となり、道路が狭く消防車が通れないなど火災に弱い。その危険を是正することが再開発の契機となる。
一方、久が原は駅前こそ人通りの割に道が狭く車との距離が近く感じるものの、街の大半は区画が整い、そうでないエリアも古い住宅が建て詰まっている箇所や極端に道の狭い箇所はなく、道路幅がある程度確保されている。東京都が抽出している木造住宅密集地域にも含まれていない。
行政が税金を投じてまで街の構造を作り替える理由がないのである。
戦前からの高級住宅地の性格
久が原が高級住宅地としての性格を有していることも大きい。
久が原には1923(大正12)年に関東大震災が発生する少し前から、銀行の重役などが移住し始めた。震災の翌年ごろから、南久が原では耕地整理組合が設立され、宅地が供給されるようになる。
26(大正15)年になると池上西部耕地整理組合が設立認可され、第4工区として久が原でも耕地整理が行われた。約10年をかけて、37(昭和12)年に工事が完了している。
耕地整理は本来、灌漑用水や農道の整備が主な目的である。しかしそれは建前となり、実質的には宅地造成のための準備として行われた。
28(昭和3)年に全線開通した池上電鉄(現・東急池上線)も、久が原の宅地化の足がかりとなった。久が原の開発ペースは他の地域に比べてゆっくりであったが、池上電鉄を合併した目黒蒲田電鉄は貸住宅地の売り出しや駅名の改称によって誘致を図っていく。
36(昭和11)年ごろに久が原駅の北東側の一部で、目黒蒲田電鉄による貸住宅地が売り出された。目黒蒲田電鉄は住民を誘致するため、この土地を借りた人に1年間の無料パスを提供したという。


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