その後、大正末期から昭和初期にかけて耕地整理が行われ、区画と道路が整えられた。それでもすぐに市街化されたわけではなく、久が原の変化は比較的ゆるやかであった。
32(昭和7)年の地図を見ると、久が原ではすでに区画が碁盤の目状に整っているが、その整然とした区画内の建物は非常に少ない。37(昭和12)年には久が原駅の近くに建物が並び始め、とくに駅の南側は市街化が進んでいるが、まだ建物のない余白も目立つ。
久が原の市街化が遅かった理由は、「池上線が開通しても、久が原は五反田駅からもかなり奥に入っており、蒲田駅からも久ヶ原駅の一つ手前の慶大グランド前駅(現在の千鳥町駅)までは運賃が5銭であるのに、久ヶ原駅まで乗ると10銭になったため、土地の借り手は計算高い勤め人であったので、久が原まで来て住む人はなかった」からだ。(『大田区史 資料編 民俗』1983.8)
商店街の変化
畑の中に住宅が建つようになると店舗も増えていき、「久が原銀座浅草商店会」が結成された。69(昭和44)年に「久が原銀座商店街振興組合」と改称。93(平成5)年に歩道の拡張とカラー舗装、街路灯・装飾灯の新設、ライラックの植栽を行い、「ライラック通り久が原」としてリニューアルした。
また68(昭和43)年オープンのサミットをはじめとした大型店が出店するなど、久が原の街にも変化はあった。


※ログイン後、コメント入力が可能です。