もうひとつ、久が原の明治時代の歴史を伝えるものに「出世観音」がある。
明治初期、久が原には「喜楽」という料亭があり、官僚や文化人に親しまれ、伊藤博文もよく訪れていた。伊藤博文が暗殺されると、喜楽の女将は敷地内に観音堂を建立。戦災で料亭は焼失したが観世音は残り、のちに「出世観音」として開放された。戦後、その土地は野村證券に売られたものの出世観音は残され、バスの停留所が「出世観音」とされた。
現在、この地は中層のマンション建設のため白い壁に囲まれているが、バス停や交差点名に刻まれた「出世観音」の字が歴史を語り継いでいる。建物が変われど、普段何気なく目にしているバス停の名前が明治時代の歴史を残しているのだ。これだから街歩きは面白い。
震災と鉄道の開通と耕地整理
大正に入ると、久が原の街が徐々に変わり始める。契機となったのは、1923(大正12)年の関東大震災だ。
震災を機に、都心の人々が郊外へ移住するようになる。加えて、池上電鉄(現・東急池上線)の開通も久が原に変化をもたらしていく。
22(大正11)年、池上電鉄の蒲田〜池上間が開通。翌23年に久が原を含む池上〜雪ヶ谷、27(昭和2)年に雪ヶ谷〜桐ヶ谷、28年に蒲田〜五反田の全線が開通した。
池上線は蒲田から久が原台地の周囲をぐるっと回り、五反田までつながっている。このような弓なりの線路になったのは、池上から先の線路を敷設しようとした際、久が原の住民が反対したからだと言われている。
久が原の住民が反対したのは、「線路が通ると農業ができなくなる」との理由だった。大正時代の久が原には畑が広がっていたということだ。


※ログイン後、コメント入力が可能です。